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羽田空港でのトラブル
JAL143便 羽田発9:55で青森空港へ向かうことになっていたが、トラブルがあった。
江頭さんがターミナルを思い違いして第二ターミナル(ANA)へ行ったため皆と一緒に搭乗できなかった。
最終的に、14:55のキャンセル待ちにやっと乗れて、青森空港からバスで弘前へ行きそこから大鰐温泉ホテルまでタクシーで駆け付け、
午後6時半の夕食に間に合った。彼女が到着したばかりのホテルのエレベーター入口でぱったり会った時 、ホットした安堵の笑顔が印象的でした。
- 「陸奥」とは、上代では蝦夷征伐のため東北一体を指していたが、幾多の歴史の変遷を経て今では青森県をいう。
青森空港には予定どおり着いたが、三内丸山遺跡は定休日で見学できず残念だった。
私は、三内官舎に住んでいたので、東京在勤中に三内丸山縄文遺跡が発掘されたと聞いた時は驚きであった。
- ユーモアのある面白い年配風の青森ガイド
空港到着時、年寄風のガイドが出迎えてくれた。車中 本人は47才と言っていたが、実年齢は逆の74才だと思った。
ところが案内説明を聞いているとバスが動いている間は、絶えることなく説明を続けた。本人はガイドのために生まれてきたという。
記憶力といい、ユーモアも交えたガイドは年を感じさせない若さがあった。
ウトウトと眠くなると「お父さん眠いですか」と寝かせてくれなかったのが唯一欠点だった。
- 自殺願望の異質作家 太宰治の実家「斜陽館」を訪ねて
私は、青森に赴任して間もない23、4才のころ、この斜陽館を訪れた。太宰治が、実家から勘当が解かれて間もないころであった。
当時も人気作家で、多くの若い女性が訪れていた。
太宰治は、青森中学、弘前高校、東大仏文科と経歴からみるとエリートのコースを歩んでいたように見えるが、作家を続けながら自殺未遂2回、
心中未遂2回、最後は玉川上水で無理心中するという特異な遍歴を経て満38才で没した。芥川賞候補に二度上がりながら、
彼の生きざまをみて評価されなかったという。然しながら、人気作家として名をなしていたので天才的作家だったろう。
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「斜陽館」は、太宰治が誕生した実家で大地主だった父親が明治40年に建てた約680坪の和洋折衷の豪邸である。
あの時代この片田舎で一階が和室で二階が洋室という入母屋造りで青森ヒバをふんだんに使った建物は、貴重な木造建築として評価された。
館内には太宰の初版本、原稿、書簡などが展示されていた。
今は、五所川原市が管理し記念館「斜陽館」として公開され、平成16年 重要文化財に指定されている。
ガイドによると「津軽は、昔 太宰治、今 吉幾三」らしい。
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高さ20mを超える巨大な五所川原立佞武多(ねぶた)
青森では、夏になると、ねぶた祭で賑わう。青森、弘前、五所川原、八戸と8月上旬に勇壮で巨大な人形灯篭を道路一杯に展開して練り歩くお祭りである。
それぞれ特徴が異なるが、五所川原立佞武多の記念館に高さ23m、重量19tの特大なねぶたを見学した。
3台あって毎年1台が作り変えるという。台座に「雲漢」という文字が書かれ天の川という意味らしい。
ねぶたを格納するために、高さ38m、6階建築物を建造したという。
エレベーターで上からも眺めてみたが、これを出陣するには並みの労力ではすまないだろう。
- 「ねぶた」の語源は何だろう
ねぶたは東北地方の七夕行事の一つで、「眠たし(眠くなる)」の語に由来する説が有力という。
七夕に木の枝や藁人形を流すもので、秋の労働を妨げる睡魔をはらうために行われたという。
それにしてもこの大きさは、進化した祭の山車である。冬の雪中にじっと耐えてきた気持ちを真夏に情熱を最大限に発散しているように思える。
- 天守閣を引っ越した弘前城
「津軽」は、弘前中心として青森県西部をいう。青森・野辺地地区と八戸・三戸地区とは風習が異なる。
南北朝時代から戦国時代には、南部一族が現在の岩手県から青森までの広範囲を支配していた。
南部一族で津軽に地盤を置いていた大浦為信が乱をおこし、津軽為信と名乗り弘前城を築いて津軽を統一して独立した。
為信は、南部藩を超えて庄内藩の最上氏と密交し巧妙な外交手段を使い豊臣政権に接近して大名として認められた。
更に関ヶ原では家康に与し4万7千石に増封された。以来南部人と津軽人は仲が悪い。
弘前城は5月の連休時が最も盛観ですが、秋の深紅の紅葉も素晴らしかった。
天守閣の下の石垣を補修するため、城全体を70m移動し2015年から工事を開始し2021年に復元するという。大きな城郭を移動する工事技術が凄いと思った。