プフィツナーの田園交響曲

2022/7/9 石井ト
皆さん今日は。昨日はチャリで井の頭宅の水遣りと草むしりに行った。
片道2.5時間のサイクリングだが、楽しみは、ポータブルスピーカーで聴く音楽。 スマホに50曲ほど入れて、それを聴きながら走るのだが、それだけあれば片道分は保つ。
走りながら聴いてる内、ベートーベンのピアノ協奏曲「皇帝」が終わって次の田園交響曲に移ったとき、 落ち着いたゆっくりした音楽に曲調ががらっと変わって驚いた。それが標記のプフィツナーの田園交響曲だった。 なお、ピアノ協奏曲の方は、フジコ・ヘミングので精々ここ10年程のものである。
それで今日、改めてそのネット上の音源を探してみた。 結果、この音源は、1930年、SPレコードにしてドイツのポリドールから発売されたものだった。 また、プフィツナーとは、"Hans Pfitzner"。1869年〜1949年の間活躍したのドイツ人の指揮者である。
また、何故それが私のスマホにあったのかと言えば、数年前、テレビで宮沢賢治がこのプフィツナーの田園交響曲を聴いたと報じていて、 宮沢賢治の感性が受け入れた音楽として、このプフィツナーの田園交響曲を挙げていたからゲットしたものだ。
確かに、宮沢賢治の生きた時期、1896年〜1933年と重なっている。 今回初めて、プフィツナーの田園交響曲の素晴らしさが分かった。特に第2楽章がいい。
そんな曲、写真と共にリンク張ったので良かったらご覧ください。
 
途中、多摩湖自転車道沿いにある「都立東大和中央公園」でのワンショット。
長閑な田園風景に近いのかなと思ってよく使う撮影ポイントです。写ってる木は河津桜。写ってる自転車は私の。 荷台に充電器を載せている。往復70kmだからアシスト無しでは無理なので持参している。
プフィツナーの田園交響曲は、ここをクリックのこと
調べると、この曲は、次の5楽章から成ってる。
  1. 「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」
  2. 「小川のほとりの情景」
  3. 「田舎の人々の楽しい集い」
  4. 「雷雨、嵐」
  5. 「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」
特に第2楽章がいい。「小川のほとりの情景」が音になってる。また、ゆっくり流れる曲は風の音がするように、また霞かかった空気感さへ聴こえる。 そして最後辺りには鳥の鳴き声が楽器で歌われる。郭公はクラリネット、ナイチンゲールはフルート、鶉はオーボエ。 プフィツナーの田園交響曲、90年余も昔のSPレコードに感謝だ。当時は音の振動をコイルを使って電磁気力に換えてレコード盤に物理的に刻みつけることで録音し、 再生の場合は、その刻みを針の振動に伝え、その針の振動を金属製の振動板に伝えて再生するという今から思うと極めてプアーな技術だったが、 その技術が思った以上に効果的だったことが分かる。即ち、録音は電気回路を使い再生は機械的にするというものだったのだ。 この技術が無ければ、プフィツナーの感性が、宮沢賢治や私たちに伝わることがなかったと思うと感謝以外の何物でもない。
結局、音楽は感性こそ大事で、テクニックは二の次ということなのだろう。テクニックは感性を産まないのだ。 人間の脳ってテクニックより素晴らしいとなる。何故なら、録音再生技術は低くても、脳がその不足分を補ってくれるからだ。 例えば、第2楽章の「小川のほとりの情景」のところで、ゆっくり流れる曲は風の音がするようだと書いたが、 物理的にはない音を脳が作り出している証拠に上げることが出来る。
となると脳は自然親和性があるから、芸術=自然性の場合、真の芸術となるのだろう。プフィツナーの田園交響曲を聴いてそう思った。 ・・・脳を大事にしよう。芸術を楽しむために。 ここまで考えると、音楽史は音楽に自然性を持たせるための試行錯誤史だったと言えよう。 そして人間の感性が進化する過程だとも言えよう。
追記(2022/7/11)
宮沢賢治がこの田園交響曲を聴いていかに感動したかが分かるようだ。その結果だろうか、彼はいくつもの詩を書いている。 歌詞だけではなく曲までつけた作品では有名なのに「星めぐりの歌」がある。
「星めぐりの歌」
あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の  つばさ
あをいめだまの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。
オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす、
アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち。
大ぐまのあしを きたに
五つのばした  ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて。
これだけのメロディーが書けるのだから、宮沢賢治も大したものだ。 この曲をプフィツナー風にオーケストレーションしたのを聴いてみたい。 わが国の音楽家にそれが出来る人材いるのかな?・・・多分、いない。日本人は和声に弱いから。 和声、それこそがオーケストレーションの源なのだ。
我が国には、和声は生まれなかった。明治以降、西洋音楽を学んで約百年余、定着していない。 恐らくずーっとだろう。我が国の土着の音楽には和声は存在しないからだ。ということはそも日本語に和声が馴染まないのかも。 そんな脳に、オーケストレーションは無理。和声楽(Harmonielehre)を学んでも身につかない。 理論とおりに書いても感動は生まない。即ち前頭葉だけの知識では無理ということだ。 資料に由ると、大脳の視床下部は、感情などに関与しており、中脳の下丘というところが聴覚処理に関与しているとあった。 これらの部位は、恐らくホモサピエンス以前の進化状態で形成された可能性があるからここ100年程度でのアップデートでは無理、諦めるしかない。
プフィツナーの田園交響曲、特に第2楽章を聴いてそう思った。
追記2(2022/7/14)
芸術=自然性について少し追記しよう。
自然性とは何かと言えば、人為的ではない音となる。人為的でない音には継続性という特徴がある。 切れ目なく続くのだ。 従って、音楽という芸術には継続性という要素が重要と云うことになる。 音楽における継続性とは何と言えば、あるメロディとあるメロディを繋ぐ滑らかさと考えられる。 音楽とは、幾つかのメロディの連続といえるから、その継続性は音楽の芸術性を左右する重要な要素である。 そのような観点から、音楽を評価すると、ベートーベンが一番で、他の作曲家は概ね下手だ。
例えば、ショスタコービッチの第2ワルツを考える場合、このメロディは素晴らしい。だが、何回も聴いてると飽きる。 また、宮沢賢治もレコードを持ってたというドボルザークの新世界交響曲も、同じだ。 シューベルトの未完成も、メロディーは跳びぬけていると思うが、継続性・展開力に欠けている。 そこへ行くと、ベートーベンのは飽きない。例えば、田園交響曲以外では「ロマンス2番」、「ピアノ協奏曲皇帝」などが挙げられる。
纏めると、メロディとメロディを繋ぐ継続性・展開性が芸術性に欠かせないと言えるとなる。それが満たされれば自然性を満たすからだ。
 
 
 

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  • アップデート:2022/07/09  [Return]