追記(2022/7/11)
宮沢賢治がこの田園交響曲を聴いていかに感動したかが分かるようだ。その結果だろうか、彼はいくつもの詩を書いている。
歌詞だけではなく曲までつけた作品では有名なのに「星めぐりの歌」がある。
「星めぐりの歌」
あかいめだまの さそり ひろげた鷲の つばさ あをいめだまの 小いぬ、 ひかりのへびの とぐろ。 オリオンは高く うたひ つゆとしもとを おとす、 アンドロメダの くもは さかなのくちの かたち。 大ぐまのあしを きたに 五つのばした ところ。 小熊のひたいの うへは そらのめぐりの めあて。
これだけのメロディーが書けるのだから、宮沢賢治も大したものだ。
この曲をプフィツナー風にオーケストレーションしたのを聴いてみたい。
わが国の音楽家にそれが出来る人材いるのかな?・・・多分、いない。日本人は和声に弱いから。
和声、それこそがオーケストレーションの源なのだ。
我が国には、和声は生まれなかった。明治以降、西洋音楽を学んで約百年余、定着していない。
恐らくずーっとだろう。我が国の土着の音楽には和声は存在しないからだ。ということはそも日本語に和声が馴染まないのかも。
そんな脳に、オーケストレーションは無理。和声楽(Harmonielehre)を学んでも身につかない。
理論とおりに書いても感動は生まない。即ち前頭葉だけの知識では無理ということだ。
資料に由ると、大脳の視床下部は、感情などに関与しており、中脳の下丘というところが聴覚処理に関与しているとあった。
これらの部位は、恐らくホモサピエンス以前の進化状態で形成された可能性があるからここ100年程度でのアップデートでは無理、諦めるしかない。
プフィツナーの田園交響曲、特に第2楽章を聴いてそう思った。
追記2(2022/7/14)
芸術=自然性について少し追記しよう。
自然性とは何かと言えば、人為的ではない音となる。人為的でない音には継続性という特徴がある。
切れ目なく続くのだ。
従って、音楽という芸術には継続性という要素が重要と云うことになる。
音楽における継続性とは何と言えば、あるメロディとあるメロディを繋ぐ滑らかさと考えられる。
音楽とは、幾つかのメロディの連続といえるから、その継続性は音楽の芸術性を左右する重要な要素である。
そのような観点から、音楽を評価すると、ベートーベンが一番で、他の作曲家は概ね下手だ。
例えば、ショスタコービッチの第2ワルツを考える場合、このメロディは素晴らしい。だが、何回も聴いてると飽きる。
また、宮沢賢治もレコードを持ってたというドボルザークの新世界交響曲も、同じだ。
シューベルトの未完成も、メロディーは跳びぬけていると思うが、継続性・展開力に欠けている。
そこへ行くと、ベートーベンのは飽きない。例えば、田園交響曲以外では「ロマンス2番」、「ピアノ協奏曲皇帝」などが挙げられる。
纏めると、メロディとメロディを繋ぐ継続性・展開性が芸術性に欠かせないと言えるとなる。それが満たされれば自然性を満たすからだ。
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