終戦記念日に思うこと

石井ト
先の戦争について色々な人が色々な意見を述べている。 有名なところでは、司馬遼太郎、半藤一利、保坂正康、等々で、新聞・雑誌・テレビ等でも、それはそれは数多くの意見が述べられている。 作戦司令部の兵站無視、インテリジェンス無視、科学的思考軽視、中には、「負けてよかった」なんてのもある。
だが、それらの意見を篩いにかけて濾しとると残るものは何だろうと考えるとき、我が国民に見えてくるのは、 その思考に於ける未来という時間軸の欠如ということではないだろうか。 他の国の民が未来を含めて思考するのに対し、我々日本人は未来思考のない世界に留まるのであるから、時間とともに格差を生じ、 終に独善、独りよがりの世界に至るのである。
ご存じの通り、日本語には未来構文がない。ということは、日本人の思考が、過去と現在に限られていることの顕われだと言えるだろう。 その顕れとして例えば、日露戦争勝利の経験から、その戦術をそのまま太平洋戦争においても踏襲した。 日露戦争は1904〜5年だから、太平洋戦争の1940〜5年まで凡そ40年間も、直さなかったし、武装も三八式歩兵銃がそのまま使われた。 ・・・これって、時間が未来へ向かって変化するという時間変化を考慮しない未来思考欠如の証としか言いようがない。
この思考法の原因はおそらく金。 例えば、新しい銃が必要だと分っても、中枢部において銭がないという現実を前に思考停止するとなる。 元々か細い未来思考が現実という現在思考に負けるのだ。一種の拝金主義だな。これやってると、段々置いて行かれることになる。 現在のわが国の地盤低下を見れば明らかだ。
この拝金主義、例えば、いいアイディアに出会ったとしても、「こぎゃん金のかかんない無理!」と、初から諦めること。 別名貧乏性とも言う。・・・こう考えると、我々がやってきたことの殆どが改良であったことが分かる。 わが国発の革新的技術は無い。そこへ行くと、ドイツはジェット機や大陸間弾道弾を着想し実践した。 イギリスは、レーダーを開発し、バトル・オブ・ビリテンに勝利した。 我々はと言えば、従前のものを改良し戦艦大和や零戦を作ったとなる。
彼我の違いは何かと言えば、アイデァを前にしたとき、我らは銭を思い、彼らは未来を思った、ということだろう。 我々は現在を見、彼らは未来という夢を見た、のである。 思考能力に於いて劣っているとは思えない。問題は思考能力に於いて違いがあるだけ。もっと言えば、時間軸のレンジに未来が含まれるか否かである。 それが彼我の違いだろう。かくて、彼らはブレークし、我らはその後塵を拝するとなる。
また、先月決まった最低賃金制の議論でも、「わが国の会社は、先ず売値を決め、それに見合う額で賃金を決める」 というやり方を紹介していた。これを聴いて驚いた、これでは賃金が大幅に上がるはずがない。 となれば、消費者物価指数の前年比を2%上昇させる目標が達成されるはずがない。眞に、売値に縛られた拝金主義だと思ったものだ。 未来思考を欠いた商売と政策が、現在の経済低迷を齎していると言えるだろう。 ここでも、現在を見ているだけ。・・・着実と言えば着実だが、夢がない。そういえば日本人は「そんな夢のようなこと言って」という決まり文句がある。 いいアイディアも、これであえなく首!となるのである。
斯くて我々がどうあるべきかは、次の2つであるとなる。
  1. 国民一人一人の思考に於いて時間軸に未来を取り入れること。即ち、未来のことを考えた思考法に変えなければならない。 一言で言えば、未来という夢を見よう!だな。
  2. その未来思考法の具現したものの一つとして、戦史を残すこと。戦争史・戦禍伝承・資料展示など、数千年耐性のものを作らねばならない。 そうすれば、未来において、過去が生きるはず。
少し追記しよう。
日本人が未来のことを考える癖、即ち、言葉がないのは、多分、未来のことを考えなくても暮らしていけたからだろう。 四海を海に囲まれた環境が、外敵の脅威から解放された世界を形成していたと思われる。
縄文期、弥生期を通して形作られてきた大和言葉の形成史が分かれば、或は、開明されるかも知れないが、文字のない時代のことだから、知る手がかりがない。 アイヌ語に、その痕跡があるかどうかだ。何しろ、縄文人の一種族の言語として現代に残った唯一の言語だから、未来をどう言い表すのか知りたいものだ。
それで、ネットで少し探ってみたが、解ったのは、金田一京助(アイヌ語研究者)のこと。コタン(集落)毎に方言があること。中央語(標準語)がないこと。 北海道、千島、樺太に分布していること。北米インディアン語と近親性があること、等々で、文法・構文・時制など、1時間ほどのワッチで知り様もなかった。 だが、アイヌ語は絶滅危惧言語だそうだ。語り部がいなくなれば死語となる。惜しい。
ホモサピエンスについて
ホモサピエンスは、300万年〜20万年前誕生した。賢い人という意味だ。 だが、その賢さ(サピエンス)が諸民族について一様だろうかと考えるとき、一つの鍵になるファクターとして、言語の分解能というファクターが考えられる。 分解能とは、その言語が、起こる事象をどの程度正確に表現できるかということだ。 となれば、分解能キーとして、「時制」表現能があってもおかしくない。
そのように考えると、英語には過去・現在・未来を表す構文があるという意味で時制があるとなる。
日本語には、過去・現在・未来の内未来を表す構文がないという意味で時制がないとなる。
従って、次の式が成り立ちそう。
      分解能 < 分解能            (添字の"J"は日本語、"E"は英語を表す)
この例から見て、日本語の分解能は、決して高いものではない、であれば、思ったほど賢くないことになる。それをを自覚すべきだろう。 そうすれば少なくとも独りよがりは避けられる。
結語
以上を要約すると、「知己」(己を知れ)となる。謙虚さこそ備徳の証、発展の種。
 
 
 
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