戦後70年の思い出特集

−懐かしい映画−

H27/11/5  石井俊雄
去る10月24日、毎日新聞に小さな記事で、モーリン・オハラの死亡を報じていた。
極小さな数行の記事だったが、「やっぱりそうか、来るものが来た」と思った。
私は子供の頃から映画ファンで、映画館にはよく通ったものである。
思えば、母をはじめ叔父叔母、祖母など、皆映画ファンで、見てはいけない的なアドバイスするなど野暮は言わなかった。
それどころか、夫々がそれなりの映画鑑賞眼を持っていて、話せば直ぐ反応が返ってくる、言わば同好の者同士だったのである。 余り、ガミガミも言われないよい雰囲気だったと思う。
そんな中、モーリン・オハラは、私の憧れの女優さんだった。
頃は今、丁度戦後70年の節目のころ、彼女の死を機会に、餓鬼の頃見た映画で印象的なのを列挙してみようという気になった。 夫々に素敵なシーンを掲示すれば、皆さんの思い出とも重なって共感できるのかな、というわけだ。 特に、モーリン・オハラが輝いて見えた映画については、代表的なネットサイトにリンクを張ってみたい。
  1. 船乗りシンドバットの冒険
    モーリン・オハラの映画で、私が最初に見たのは、「船乗りシンドバットの冒険」という映画。 昭和21年製作のハリウッド映画である。私が見たのは、おそらく昭和23年ころだろう。 その頃、私は餓鬼だったが、この映画で初めてリピートすることを覚えた。・・・餓鬼にして遊郭に通ったようなものである。
    キャスティングは、ダグラス・フェアバンクス・ジュニア(下のジャケットの写真の左上の男優)、 モーリン・オハラ(その写真の同じく女優)、ウォルター・スレザク、アンソニー・クイン、 などである。
    ストーリーは、所謂宝探しの冒険譚だ。デリアバーという小島に隠されたアレキサンダー大王の秘宝を探すというもの。 最後は、宝も見つかり、美女も得るハッピーエンドの物語である。
    ストーリーもさることながら、モーリン・オハラの美しさには目を瞠ったものだ。
    十年ほど前、偶然、その映画のDVDを見つけたので、買っておいた。即座に決心してね。 そのジャケットの写真を掲げておこう。
      
    「船乗りシンドバットの冒険」のDVDジャケット
     
     
  2. 静かなる男
    モーリン・オハラの映画で、私の一番のお気に入りが、「静かなる男」という映画。
    これを見たのは、昭和27年ころだった。私が中学2年のことだ。
    ストーリーは、アイルランド系アメリカ人の青年ショーン(ジョン・ウェイン)は、生まれ故郷であり幼少期をすごした、 アイルランドの小さな村イニスフリーを訪ね、居を構える。 最初は奇妙がられていたものの、誠実で逞しく気のいい青年は、たちまち街の人々の人気者となる。 ショーンはやがて隣のダナハー家の勝気な村娘メアリー・ケイト(モーリン・オハラ)と恋仲になる、 というハッピーエンドの物語である。 詳しくは、 ここをクリックして呉れ給え。
    主題歌は、"The isle of Innisfree"というアイルランド民謡をアレンジした曲だ。 いい曲だよ、長閑でアイリッシュで。聴きたいなら ここをクリックして欲しい。
    この映画で素晴らしいのは、最初に、 ショーン(ジョン・ウェイン)とメアリー・ケイト(モーリン・オハラ)が出会うシーンだろう。 人には必ず出会いがある。その出会い自体で人生が大きく左右されるケースって多いのではないだろうか。 そして、この場合、とてもハッピーな出会いだったと思う。
    特に目を引くのは、メアリー・ケイトの衣装だ。 色彩的にも、際立っている。紺の上着に赤のスカート、この出立で緑なす自然の中に羊を追う姿を見せられたら、 男だったらイチコロだろう。 ジョン・フォードの感性って、作為性を感じさせないで、極く自然に見える日常的な映像創りに秀でていたのではないだろうか。 それと、音楽がいい。音楽も、作為性を感じさせない自然性という点で同じだと思う。
    「作為性を感じさせない自然性」とは、作為がないわけではない。作為はあるがそれが自然に見える、という意味だ。 この場合、唯の自然なら羊を追う娘さんがいたとしても、着ているものは唯の野良着だろう。 それを、野良着に見えて野良着ではない言わばファッション性を持たせたた衣装にしたところに才能がある、というわけだ。 特に色彩性がいい。このシーンにファッション性を持たせたのはこの色彩性だろう。この色使いでおそらく世界一の出会いシーンになった。 黒澤明もその点では負けている。一般的に、西洋人の監督の場合、色使いがいいようだ。
    因みに、世界一のラブシーンは何だと思いますか。 私は、李香蘭と長谷川一夫が、映画「支邦の夜」(昭和5年)で李香蘭が「蘇州夜曲」を歌いながら、 二人寄り添って蘇州市の虎丘公園を歩くシーンだと思う。
    人はこれらの映画を見た後で思うのだ、「人生、捨てたものではない!」と。
    このハッピーエンドさ、素晴らしい。映画の入場券を買った甲斐があったというものだろう。 人は、これを求めて映画館にくるのである。
    ジョン・フォードさん、有難う。
    映画の中でメアリーが歌う歌詞は少し変えられていて、 次のようになっているそうだ。 (引用元は
    Oh, Innisfree, my island, I’m returning
    From wasted years across the wintry sea.
    And when I come back to my own dear Ireland,
    I’ll rest a while beside you, gradh mochroidhe(*).

    (*)gradh mochroidhe: love of my heart
    YouTubeに寄せられた次のコメント、人の運命とは言え寂しい限りである。
    Maureen O'Hara who passed away today at the age of 95. She was the last living actress from the "Golden age of Hollywood" and as of this day there is no longer any living cast members from 'The Quiet Man'.
    「静かなる男」に出演したメンバー最後の生き残りがモーリン・オハラだった。 斯くして、時は流れて行くのだろう。ご冥福を祈るばかりである。
     
     
  3. 未完成交響楽
    この映画、1933年、オーストリアで製作された。 ロマンティックな楽聖シューベルトの伝記映画で、本国ドイツでの評判は必ずしもよくなかったようだが、 日本では戦前ドイツ映画の代表傑作と認められ、大ヒットした。 フランツ・シューベルトとハンガリアのエステルハーツィ伯の伯爵令嬢カロリーネとの悲しい恋の物語だ。
    私がこの映画を見たのは、昭和22年ころだろう。 戦後、それまで禁止されていた外国の映画が、どっと公開された中の一つである。
    その中には、ジャン・マレー主演の「美女と野獣」、同じく「オルフェ」、ジャン・ルイ・バロー主演の「天井桟敷の人々」、 ジェニファー・ジョンズ主演の「ジェニーの肖像」など見た。 「天井桟敷の人々」以外はフアンタジーで子供でも理解できる面白さがあった。「天井桟敷の人々」は、訳わからなかった。 だが、パントマイムというものの存在を知った初めての経験だった。
    「未完成交響楽」で憶えているのは、菩提樹、野ばら、シューベルトのセレナーデ、未完成交響曲、 アベ・マリアなど散りばめられていたことの微かな記憶。
    中でも素晴らしいと思ったのは、マリア・エゲルトが歌うシューベルトのセレナーデだ。 彼女自体は妖艶過ぎて余り好きにはなれなかったが、歌は素晴らしかった。
    聴いてみますか、してください。
    マリア・エゲルト、妖艶だが声、素晴らしいでしょ!
    (27/11/8 追加)
     
     
  4. 皇帝円舞曲
    この映画、ビリー・ワイルダー監督、ビング・クロスビーとジョーン・フォンテイン 出演の1948年のアメリカ合衆国のミュージカル映画である。
    日本公開は昭和28年だから、私がこの映画を見たのは、昭和28年だろう。 私は中学2年生、一番映画を見たころである。
    20世紀の初め、アメリカ人の蓄音機セールスマン、ヴァージル・スミス(ビング・クロスビー)は、 フォックス・テリヤの愛犬バトンズを連れて、オーストリアにやって来た。 皇帝フランツ・ヨゼフ(リチャード・ヘイドン)に蓄音機を売りつけようというのだ。 ふとしたことからバトンズは、伯爵令嬢ジョアンナ(ジョーン・フォンテーン)の愛犬である血統正しい牝の フレンチ・プードル、シェラガーデと出会う。
    その犬同士のやりとりを介して、最後には、ヴァージル・スミスとジョアンナが結ばれるという一種のファンタジー映画だ。
    その中の挿入歌が、「奥様お手をどうぞ」だ。 確か、蓄音機のデモンストレーションに鳴らして見せたのが「奥様お手をどうぞ」だった。 だが、そのサウンドトラックが見つからないので、代わりに 菅原洋一のを貼り付けておこう。
    この曲は人妻への恋の歌だ。人妻になっていっそう魅力が増す人もいるし、そうでない人もいる、とは二木紘三の評。 貴女はどちらかな?!
    それにしても、菅原洋一ほど、声と顔が一致しない人も珍しい。でも、ベルベット(スペイン語で「ビロード」のこと) のようだと評した人がいるほどの美声なら、 少々の犠牲は払っても悔いはないだろう。 私など、普通の声で犠牲だけは払っているのだから。
    (27/11/11 追加)
    それにしても、今日はよかった。三菱航空機のリージョナルジェット機が初飛行に成功したから。
     
     
  5. ニューオーリンズ
    この映画、1947年(昭和22年)製作のアメリカ映画だが、残念ながら我が国では未公開の映画だ。
    内容は、ジャズ発祥期の歴史がよく分かる映画なので、餓鬼の頃見た映画で印象的なのを列挙するという原則からは外れるが、 例外的に取り上げてみることにした。
    私がこの映画を見たのは、TVで放送を見たのが初めてだ。二十数年も前のことだが。
    そして、今から十年近く前、大病で臥せっていたとき、息子が差し入れてくれたDVDで再見したのだった。
    あらすじは、ジャズ発祥の地ニューオーリンズ市のベーズンストリートが、いかがわしい街一掃のため取り壊しとなり、 ジャズメンが一斉にシカゴやメンフィスなどに移住し、 その地でジャズが認められるようになるまでのいきさつを映画化したものである。
    特に気に入ったのは、この映画のために作られたという曲、"Do you know what it means to miss New Orleans" だ。 訳すと、「この気持ちわかる、ニューオーリンズを失った気持ちが」である。 ヴォーカルは、ビリー・ホリデイ、コルネットはルイ・アームストロング、それを聴いてみよう
    最初の画面で、歌ってるのが、ビリー・ホリデイだ。 映画の始めのころ、ベーズンストリートにある賭場で演奏するジャズメンの中に入ってビリー・ホリデイが歌う場面である。
    邦訳の歌詞を書いておこう。引用先はDVDの字幕からである。但し、一部直したけど。
    Do you know what it means to miss New Orleans
    この気持ち分かる?ニューオーリンズが恋しいわ
    And miss it each night and day
    昼も夜も一日中恋しいわ
    I know I'm not wrong, the feeling's gettin' stronger,
    私は悪くないのに、日に日に大きくなっていく
    The longer I stay away.
    離れていれば離れているほど
    ・・・・
    (途中省略)
    ・・・・
    Do you know what it means to miss New Orleans
    そしてニューオーリンズがまた恋しくなる
    When that's where you left your heart?
    心を残してきたから、恋しい気持ちになる
    And there's something more,
    それだけじゃないわ
    I miss the one I care for,
    大事な人も恋しい
    More than I miss New Orleans.
    ニューオーリンズよりもっと恋しい
    ニューオーリンズを追われ異郷の地シカゴでジャズを広めたジャズメンたちが、 故郷のニューオーリンズを思って歌う歌。・・・素敵だよね。
    (27/11/14 追加)
     
     
  6. 風と共に去りぬ
    1939年に製作されたアメリカ映画。監督はヴィクター・フレミング。 主演はヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブル。日本での初公開は戦後の1952年。
    日本公開は昭和27年だから、私は中学1年生だった。
    前評判も高く、入場券も高いという噂が流れ、私など高嶺の花と諦めていた。 だが、ある日、母が連れて行ってくれるということになって吃驚した記憶がある。
    私の兄弟は女ばかりで、このような女性好みの映画が、私にお鉢が回るなんて考えてもいなかったからだ。 でも、断る理由はない。こわごわだが母に連れられ見にいった。映画館は「朝日館」というところだった。
    原作は、マーガレット・ミッチェルの長編時代小説。 題名は南北戦争という「風」と共に、当時絶頂にあったアメリカ南部白人たちの貴族文化社会が消え去った事を意味するそうだが、 その過程を壮大なスケールで映画にしたものだ。
    私の印象では、ヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブルが一緒にならなかったことに不満を感じた。 何しろ餓鬼だから、ハッピーエンドでない終わり方には納得できなかったのである。 それに、ヴィヴィアン・リー演じるスカーレットがレスリー・ハワード演ずるアシュレーに思いを寄せるのも理解できなかった。 クラーク・ゲーブルと比べると、「どしてあんなのに!」と納得いかなかったのである。 でも、ヴィヴィアン・リーの美しさには納得だった。でも、ちょっときつい感じがしないでもなかったな。
    見た後は、当時、学校では映画を見るなと言われていたので、誰にも話せず、鬱々としたものだ。 独りでほくそ笑むって実につまらないのだった。でも、同好の友人はいなかったな、残念ながら。 皆、映画と言えば、「仔鹿物語」とか「白雪姫」のことだったから、話しても無駄と思っていた。
    それから、主題歌の「タラのテーマ」、 壮大な曲調で、映画を代表していたと思う。 作曲は、マックス・スタイナーというオーストリア生まれのユダヤ系アメリカ人。 名付け親はリヒャルト・シュトラウス。ピアノの手ほどきをヨハネス・ブラームスに受け、 15歳でウィーン帝室音楽院(現在のウィーン国立音楽大学)に入学し、グスタフ・マーラーから教えを受けた。 彼はその才能で4年の課程を1年で終えた秀才だそうだ。
    彼の作曲で我々にも馴染みなのは、映画「カサブランカ」の主題歌「時の過ぎ行くまま」("As time goes by")だろう。
    「風と共に去りぬ」の日本公開は1952年だから、太平洋戦争を始める1940年当時はまだこの映画を見ていなかったが、 開戦後、シンガポールに攻め込んだ日本軍は、そこで、この映画のフィルムを見て、 改めてアメリカのスケールの大きさに驚いたそうである。
    戦前の軍人も、もう少し映画をみるなどしていれば、開戦を避けることに繋がったかも知れない。 真面目過ぎるのも及ばざるが如しである。視野が広がらないからだ。
    山本五十六は、「我に一式陸攻1000機、零戦1000機を与えてくれれば対米戦争をやってもよい。」と言ったそうだが、 視野が狭いとはそんなことだ。彼から見ると、一式陸攻1000機、零戦1000機というレベルが、 冗談にしろ、彼の最大スケールだったわけだ。 そのようなスケールの人が連合艦隊司令長官で開戦したのだから喜劇的。 ・・・だから、若い時は遊ばないといけないのである。映画ファンの弁解にして勧誘ではあるが。
    (27/11/19 追加)
     
     
  7. 地獄の顔
    これは昭和22年に公開された邦画である。
    主演は、水島道太郎。我々より二回り以上年長で、平成11年に亡くなった俳優さんだ。
    港のギャング物で、長崎の教会の孤児院で働く更正した元ギャング(水島道太郎)が上海時代の元のボスの悪事を阻むが、 その争いで重症を負い、やっとたどりついた教会の孤児院の門前で息絶えるというもの。 当時、出だしたハードボイルド系アクションものである。
    小生が憶えているのは、その最後の場面。教会の孤児院の門前で力尽きるのが切なくて、印象が強く記憶に残ったものだ。 その印象が無ければ、忘れてしまっていただろう。
    この映画を取り上げたのは、この記憶だけではない、主題歌が素晴らしかったのだ。 主題歌は、3曲もあり、その一つ一つが皆そろって大ヒットした名曲揃いだったのだ。 「夜霧のブルース」「長崎エレジー」「雨のオランダ坂」の3曲だ。 前の2曲は大久保徳次郎の作曲になるもの。最後の1曲は古関裕而である。
    歌手のディック・ミネは映画にもでていて、その中で歌もうたってる。 当時、39歳。サウンドトラックでは素晴らしい若い声を披露している。 また、「雨のオランダ坂」を歌ってる渡辺はま子、彼女のヴォーカルも素晴らしい。
    これほどの名曲が3本も揃ったギャング映画、というのも珍しい。 ウェスト・サイド物語にも負けない音楽性に満ちた映画と言えるだろう。
    その内、誰かが、本格的ミュージカルとしてリメイクするのではないだろうか。 それまで、生きていたいものである。
    (27/11/23 追加)
     
     
  8. 略奪された7人の花嫁
    原題は、"Seven Brides for Seven Brothers"であるから、「略奪」とは聊か強すぎる訳だが、 内容的にはハッピーエンドのハリウッド映画らしい作品だ。
    昭和29年に公開された映画だから、私が高校1年生のときだ。
    私が初めてミュージカル映画というジャンルの存在を認識した映画である。 それまでは、いつもの西部劇くらいなものだろうと思っていたが、実際は、音楽が主体の映画、ミュージカルだった。 私の、長い人生の中でのミュージカル初体験だった。
    「へぇ−、これがミュージカルなのだ!」
    というわけである。
    何故、そう思ったかというと、音楽が9曲も出てくるが、そのどの曲をとっても皆素晴らしいものだったからだ。
    その後も、「オクラホマ」とか「ショーボート」とか数々のミュージカルを見たが、いずれも「略奪された7人の花嫁」 を超えるものはなかったと思う。1965年「サウンド・オブ・ミュージック」が出るまでは。
    その記念すべきミュージカル初体験の映画を取り上げてみた。
    あらすじは、 ウイキペディア(ネットの百科辞書のこと)からの引用だが、つぎのとおりだ。
    アダム(ハワード・キール)はオレゴンの山奥から嫁を捜しに出てきた。 レストランのミリー(ジェーン・パウエル)を数時間で口説き落として農場のある山へ連れ帰る。 ミリーは7名の兄弟に会い、散らかし放題の家の中を見て驚く。かいがいしく働き、兄弟たちも行動を改める。 街へ行くと喧嘩ばかりなので、ミリーは女性と交際するエチケットを教え、何とか一人前にして6人の弟たちを町へ連れ出した。 1人1人相手を得るが、町の男が誤ってアダムの頭へ厚板を落としたのがきっかけで大乱闘となる。 チャンスを失った兄弟は憂鬱な日々を送る。
    アダムは古代ローマ人が町を襲って結婚相手をさらった「サビニの女たちの略奪」の話を教える。 間もなく兄弟の4頭立ての馬車が町を襲い、娘たちをさらう。町人が後を追うが、雪崩で一本道が断たれる。 憤慨したミリーは男たちを納屋へ押し込め、娘たちは自分と一緒に母屋においた。
    厳重な監視下、若者たちも娘たちも憂鬱な冬を過ごすことになる。 雪融けとともに、町の人たちが武器をもって娘たちを取り返しに来るが、娘たちも兄弟と手をとりあって町人に反抗する。 ちょうどミリーに第1子が誕生し、牧師のアリスの父が誰の子か聞いたら、兄弟みんなが自分の子という。 押しよせた人々は「できちゃった結婚」(Shotgun wedding)だとあきらめ、立会人になって6組の結婚式が賑やかに執り行われる。
    曲は、9曲もある。アカデミー作曲賞を撮った映画だから何れがアヤメかカキツバタだが、その中から、 "June Bride"(6月の花嫁)を聴いてみよう。 ここをクリックして欲しい
    Music by Gene de Paul
    Lyrics by Johnny Mercer(ジョーニー・マーサー)
    Sung by Virginia Gibson and Chorus
    である。なお、歌詞についてはここをクリックして欲しい
    この映画の歌曲の作詞を書いたジョーニー・マーサーは、アーヴィング・バーリン、コール・ポーター、ロレンツ・ハート、 オスカー・ハマーシュタインU世、ジェローム・カーン、ハリー・ウォレーン、ハロルド・ローレン、 ヘンリー・マンシーニなどとコンビを組んで数え切れないほどの名曲を残したアメリカの国民的作詞家と言われる。
    ヘンリー・マンシーニとのコンビの部分について詳しく書けば、
    1961年『ムーンリバー』をオードリー・ヘップバーン主演映画『ティファニーで朝食を』に、 『酒とバラの日々』を同名映画に書き、スタンダード化。作曲は両方ヘンリー・マンシーニ。両方オスカー受賞。 1963年シャレードも二人で共作。
    ということからだけでも、まさに偉大な作詞家だったと言えるだろう。
    (27/11/29 追加)
     
     
  9. グレートレース
    「グレートレース」(The Great Race)は、1965年に製作されたアメリカのドタバタコメディ映画。 同年のアカデミー賞音響効果賞を受賞した。監督はブレイク・エドワーズ。 この映画は1908年に実際に行われたニューヨークからパリまでの自動車レース (1908 New York to Paris Race)をモチーフにして、 おおよそ22,000マイル(約35,000キロ)のコースとその時期を実話に合わせて話を展開させている。 映画史上最大のパイ投げ合戦シーンなど、サイレント映画の手法やギャグが多く使われている。 主演はトニー・カーティス、ジャック・レモン、ナタリー・ウッドで、 カーテイスとレモンは『お熱いのがお好き』で共演し、カーテイスとウッドは『求婚専科』で共演している。 これに後に「刑事コロンボ」で刑事役を演じたピーター・フォークが悪役でコメディアンの片鱗を見せている。 ("Wikipedia"より抜萃)
    昭和40年に公開された映画だから、私も会社員で当時仙台にいたときだ。だから、仙台で見たはずだがそのときの記憶はない。
    仙台には2年間いたので、憶えているのは、確か「幸福」("Le Bonheur"、1965年)というフランス映画を仙台で見た。 この映画でエミリー役をやったクレール・ドルオーという女優さん、とても素敵だった。それから、音楽がぴったしだった。 モーツアルトの「クラリネット五重奏曲」でしたが。
    当時、仕事先の女の子と見に行ったけど、あまり感じてないようなのが印象に残った。 思えば、高校を出て間もない歳だから、無理もないかなと思ったりしたけで、少しがっかりしたものだ。
    それから、もう一つ、「サウンド・オブ・ミュージック」を見たのも仙台だった。これも、反応はイマイチだった。
    話を本題にもどすが、「グレートレース」、映画自体は所謂ドタバタコメディーでなんてことないのだが、 いいところは、主演女優のナタリ−・ウッドと、ヘンリー・マンシーニの音楽だ。 この二つは忘れられない印象として残った。
    ナタリ−・ウッドは数年前に公開された「理由なき反抗」(1956年)に少女役で出演していて目立っていたが、 この映画でも素晴らしかった。
    「グレートレース」の主題歌は、"The Sweetheart Tree"。聴いてみますか。 ここをクリックしてください
    次いでにモーツアルトの「クラリネット五重奏曲」第1楽章にもリンク張っておきます。 ここをクリックしてください
    第2楽章はここをクリックしてください
    (27/12/5 追加)
     
     
  10. オーケストラの少女
    この映画の日本公開は戦前の1937年だ。
    だが私がこの映画を見たのは、戦後間もないころ、私の小学校時代だろうと思う。
    主演の女優さんは、ディアナ・ダービンという方で、当時、私の兄弟の間では、ダイアナ・ダービンと呼んでいた。
    映画は、所謂クラシック音楽の楽団員とディアナ・ダービン演じる少女との音楽を通したふれ合いの物語だ。
    名指揮者レオポルド・ストコフスキーと実在のオーケストラであるフィラデルフィア管弦楽団が出演したことで知られる音楽映画である。 1937年のアカデミー作曲賞を受賞している。
    ディアナ・ダービンは16歳でこの映画に出ている。歌も上手い。ダービンはポピュラーソングからオペラのアリアまで、何でも歌いこなしたそうだ。
    その歌声を聴いてみよう。千の言葉より雄弁に彼女の天才ぶりを語るだろう。
    まず、モーツアルトのモテット「踊れ喜べ、幸いなる魂よ」より“アレルヤ”だ。 ここをクリックして呉れ給え
    なお、「モテット」(独: Motette)とは、中世末期からルネサンス音楽にかけて成立・発達した声楽曲の形式で、 複数パートの声が協和しあって進行するラテン語の宗教曲です。
    次は、シューベルトの「アヴェ・マリア」。これが秀逸なのだ。 ここをクリックして呉れ給え
    子供の頃は、貧乏楽団の成功物語というハッピーエンドに心震わせたものだが、今は、ディアナ・ダービンの声に惚れ惚れと感動している。 彼女は、1950年に引退しフランスのパリ近郊の小さな村に移住し、息子を育てたそうだ。 そして、2013年、亡くなられたとのこと。92歳だったとか。
    (27/12/16 追加)
    ディアナ・ダービンの歌声、素晴らしいですね。 「庭の千草」(1939年)という映画のサウンドトラックから、もう1曲、聴いてみましょう。 "The Last Rose of Summer" 日本名「庭の千草」です。
    いや!・・・ため息がでますね。歌って欲しいように難なく歌ってくれました。
    それで、昔、「リオ・グランデの砦」という映画がありましたね。1950年製作のアメリカ映画で、ジョン・フォード監督作品ですが。 主演は、ジョン・ウエインとモーリン・オハラでした。 その挿入歌に"I'll Take You Home Again Kathleen"というのがありました。 憶えておられる方も多いと思います。 その曲、ディアナ・ダービンの歌声のを発見しました。聴いてみましょう。モーリン・オハラとジョン・ウエインとディアナ・ダービンを偲んで。 「リオ・グランデの砦」のよりいいみたいです。
    (27/12/17 追加)
     
     
  11. オズの魔法使
    『オズの魔法使』(オズのまほうつかい、The Wizard of Oz)は、1939年に公開されたアメリカ合衆国のファンタジー・ミュージカル映画。 日本公開は戦前の1954年だ。
    私がこの映画を見たのは中学3年だろう。
    主演の女優さんは、ご存知、ジュディ・ガーランド。誕生は1922年だから、ディアナ・ダービンと同世代に人だ。
    この映画、1939年のアカデミー賞では作品賞を含む5部門にノミネートされ、作曲賞(ハーバート・ストサート)、歌曲賞(「虹の彼方に」)、 特別賞(ジュディ・ガーランド)を受賞した。なお、監督のヴィクター・フレミングは同年の作品『風と共に去りぬ』で監督賞・作品賞を受賞している。
    ジュディ・ガーランドが歌った主題歌「虹の彼方に」(Over The Rainbow)は アメリカン・フィルム・インスティチュートの 「歴代名歌曲ベスト100」の第1位を獲得した。
    彼女の本名はフランシス・エセル・ガム(Frances Ethel Gumm)。父親がボードビリアン、母親がピアニストの家庭で3人姉妹の末っ子として生まれる。 芸名の「ジュディ」は彼女が好きだった歌のタイトルから、 「ガーランド」はあるボードビリアンが彼女たち姉妹を評して「ガーランド(花輪の意味)のようだ」と言ったことから付けたと言われている。
    余りにも人気が出たため彼女のスケジュールは過密となってしまい、 この映画の公開直後から覚醒剤(アンフェタミン)に加えて睡眠薬(セコナル)を常用するようになる。 現在から見ると信じられないことだが、当時は睡眠薬も覚醒剤も害が十分に分かっておらず、 MGMはセコナルとアンフェタミンをジュディに服用するよう勧めていた(ドラッグの類はハリウッドスターを休みなく働かせるための必需品として推奨すらされていた)。
    それ以降、仕事面ではミッキー・ルーニーとコンビを組んだ裏庭ミュージカルシリーズ、『若草の頃』、『ハーヴェイ・ガールズ』、 『イースター・パレード』といったMGM映画の大作に次々と主演するようになり、全盛期を迎える。 しかし、一見清純で明るく健康そうな表面的なイメージとは裏腹に、1940年代初頭から神経症と薬物中毒が少しずつ確実に表面化していった。
    1969年6月22日に睡眠薬の過剰摂取で死去した際、 『オズの魔法使』でカカシを演じたレイ・ボルジャーは彼女の死に対して「もう彼女は疲れてしまったのだ」とコメントし、 2度目の夫ヴィンセント・ミネリとの間に生まれた長女ライザ・ミネリは、「母はハリウッドが大嫌いだった」「母を殺したのはハリウッドだ」と発言し、 ハリウッドではなくニューヨークで葬儀を執り行い、ニューヨーク郊外の墓地にジュディを埋葬した。
    彼女は莫大な収入を浪費してしまっており、400万ドルの借金だけが残り、埋葬の費用にも事欠いたそうだ。 (以上、「ジュディ・ガーランド Wikipedia」より抜粋。)
    以上、ある意味では奔放な生き方と、眉を顰める向きもあるかも知れない。 だが、 彼女が歌った主題歌「虹の彼方に」(Over The Rainbow)は、すべてを超越して輝いている。
    (27/12/20 追加)
     
     
  12. サン・アントニオ
    いつの頃からか知らないが、音楽を知っていてそれが映画の主題歌だと随分先になって知った映画の話をしよう。
    この映画、小生は見たかどうか憶えていない。 主演のエロール・フリンは当時人気な男優さんだったので、彼の映画はよく見た憶えはある。 だから、多分見てると思うのだが、はっきり見たと言える記憶はない。
    だが、この映画の主題歌「サム・サンデー・モーニング」はよく知っている。 いつ知ったかは憶えてないが、よい曲だと思っていた。ずーっとだ。 曲の素性を知らないで、曲だけを知っている、それも好きな曲としていつの間にか知っていた曲として、自分でも不思議な気がしている。 実は、この曲が映画「サン・アントニオ」の主題歌と知ったのはここ5〜6年前のことなのだ。
    その後の調べで、この映画のことが少しだけ分ってきた。 映画そのものは1945年にアメリカで公開されたが、日本での公開はその数年後のことのようだ。 ネットで調べても、"Wikipedia"が出来てないし、日本公開の明確な年はわからない。 だがそれを見た人の書き込みがある。
    「終戦直後、まだ焼け跡の多い大阪南の大劇で、OSKのスターが、「サム・サンディ・モーニング」を歌う のを見ました。だから、この歌は、OSKの歌だと思っていました。その二年後に、「サン・アントニオ」 を見て、アレキシス・スミスの歌にすっかり魅了されました。」
    というものだ。
    このことから推測して、多分昭和23〜24年ころだろう。
    映画そのものも、ネットの書き込みから拾うと次のようになっている。
    「サン・アントニオ」(1945)デイビッド・バトラー監督作品。カラー西部劇最初の公開でした。 テキサスを舞台に、牛泥棒を向こうにまわす牧場主の活躍を描く大作です。 主題歌「サム・サンデー・モーニング」が大ヒットした。エロール・フリンとアレクシス・スミスの意気のあった作品で、 後に、二人の共演で「モンタナ」(1950)がある。
    見たか見ないかはっきりしないが、余りにも主題歌に馴染んだことに免じて採り上げることにした。
    10数年前になるが、井の頭線の電車内で、この曲が頭に浮かんだので、思はず口笛を吹いてしまったことがあった。 電車内は、パラパラと人が座っているくらいの空いてる状況だったので、そんなに聴こえないだろうと思った所為もある。
    数分間ほど独りで楽しんでいた。こんな曲、知ってる人はいない筈と決め込んでいたのだ。
    そしたら、遠くの方で同じ曲の口笛が聴こえ来たのには吃驚。 急に黙りこんで、井の頭公園駅に着いたのを幸いに、そそくさと下車したことがあった。
    やはり、知ってる奴がいたかと、珍しいと思う気持ちと気恥ずかしい思いがしたものだ。 今にして思えば、少し話してみてもよかったかもと思はないではない。
    以前にもとりあげたので目新しさはないだろうが、「サム・サンディ・モーニング」、聴いてみよう。
    この動画で見た、酒場でアレクシス・スミスが歌を歌うシーンでのエロール・フリン、見たような気がする。・・・だが、はっきり断言はできない。 なにしろ、エロール・フリンは当時有名で見慣れた男優だったが、強烈な個性で強い印象を与える性格俳優ではなかったから、 どの映画かまでを特定するほどの強い印象は与えなかったものと思われる。 そこへ行くと、カーク・ダグラスなどは強烈だった。1957年の「バイキング」、1960年の「スパルタカス」などが直ぐ思い出される。
    (28/1/5 追加)
     
     
  13. 七つの顔
    昔、戦後間もない昭和21年に封切られた映画が「七つの顔」である。
    片岡千恵蔵が多羅尾伴内という探偵を演じる娯楽アクション映画である。 私は当時8歳だが、この映画の「七つの顔」という一風変わった題名と、七つの顔が片岡千恵蔵の変装のことだとわかったこと、 それにとても面白かったこと、などを憶えている。
    その後、間もなく、「三本指の男」という映画も封切られた。 こちらも片岡千恵蔵が出ているので見たかったが、三本指というのが恐ろしくて怖々と観た。 この映画は、横溝正史の原作を映画化したもので、金田一耕助シリーズの第一回作品だそうだ。
    このシリーズはその後、「 獄門島」、「八ツ墓村」、「悪魔が来りて笛を吹く」、「犬神家の謎 悪魔は踊る」、「三つ首塔」など、 片岡千恵蔵の金田一耕助役の作品が作られ、私は殆どのを観てると思う。
    この金田一耕助役は、その後色んな役者さんが演じて繰り返し作られたので、こんがらがってしまう。 例えば、石坂浩二の金田一耕助役では、昭和51年に「犬神家の一族」がリメイクされており、テレビの番組で何回も放送されているので、 石坂浩二の金田一耕助役での「犬神家の一族」が浮かんでくるが、本当は、片岡千恵蔵のがオリジナルの「犬神家」なのである。 石坂浩二の「犬神家の一族」では、高峰三枝子の「犬神松子」役が光っていたが、オリジナルでは、その役を演じたのは、なんと「小夜福子」だった。 どちらが上手かったかは見比べないといけないが、多分高峰三枝子の方が上手だったろうと想像している。 何故なら、高峰三枝子の臈たけた美しさが印象深かったからだ。
    多羅尾伴内シリーズの作品は、その後、11作つくられたそうだ。 「十三の眼」(昭和22年)、「二十一の指紋」(昭和23年)、「三十三の足跡」(昭和23年)、「片目の魔王」(昭和28年)、「曲馬団の魔王」(昭和29年)、 「隼の魔王」(昭和30年)、「復讐の七仮面」(昭和30年)、「戦慄の七仮面」(昭和31年)、「十三の魔王」(昭和33年)、「七つの顔の男だぜ」(昭和35年)、 などだ。 小生、全部見たかどうかは記憶にないが、大方は見ていると思う。
    面白かったのは、主人公の片岡千恵蔵の変装術。 そして、彼はこう言うのだ。
    「あるときは片目の運転手、またあるときはインドの魔術師、中国の大富豪、・・・そしてその実体は正義の味方、藤村大造!」
    ま、こう言って歌舞伎じゃないが見栄を切るわけだ。
    それから、もう一つ愉快だったのは、片岡千恵蔵が撃つピストルの弾が、何発も出ること。 子供心にも、あれは不思議で愉快だった。 全11作の中で、後になるほど、数が増えたように思う。
    そのような多羅尾伴内シリーズの作品の第一作「七つの顔」の動画、 ネットに転がっているので、よかったらご覧ください。 昔の映画が今より単純で明るかったことが分ってもらえると思う。・・・余り深刻にならないで娯楽に徹するのはよいことだと思います。 片岡千恵蔵って、そんな映画にピッタシのキャラだったと、改めて思いました。
    (28/1/10 追加)
     
     
  14. つづく
    この後、まだまだ続くが、とりあえず切ることにする。
    諸君の思い出強い映画、レポして欲しい。期待しています。
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親の背を見て子は育つ
桑原
石井トさん、映画・音楽などの造詣の深さにかねがね敬服。
このほど、貴兄がモーリン・オハラ訃報に寄せた「懐かしい映画」の中で触れている幼少期の生い立ち環境を読んで、はたと合点がいった気がした。
人は、生れ育った家庭環境がその後の成長過程に大きな影響を及ぼす、能力・研鑽などと相俟って花開く。
翻って私は、退職後初対面の人から「あなたは先生だったでしょう?とか、学校の校長先生?」などと訊かれた経験が少なからずあります。親父には反抗し勝ちで、反面教師として考えていたのに、知らず知らずのうちに立ち居振る舞いが身に沁みついていたのだろうか。
会社でも、大阪商人の倅で、商才ではとても敵わない同僚がいました。骨の髄から商売人。
喜寿も過ぎ、まだまだ人生は奥が深い。これからもよろしく。
(2015/11/08 17:42)