戦後70年の思い出特集

戦後70年で思い出に代えて

H27/10/31  石井浩四郎
俊雄君からお誘いを受けながら纏まったものを書けないままにさぼっておりましたが、 野中進君(通称ノナカのシンちゃん)の歌や桑原君の投稿などに触発され子供のころの思い出すことなど書いてみました。
「鮒釣り」
お濠でよくやりましたね。もっとも私は気が短い方でじっと浮きを眺めて辛抱するのは苦手で、 専らハヤ釣り専門でした。釣り道具やで安い竹の釣り竿尾を買って、釣り糸、ハヤ釣り針、錘をつけ、 ウジを入れたエサ入れをもって多布施川によく出かけました。夏場の水泳場を除いて専ら多布施川、招魂社の横、 松原町のポンポン井樋(末安君の家の前)がよく通ったところ。 もっとも我が家は恵まれていて当時の警察から佐高に向かう多布施川の支流沿いにあったので、 私の勉強部屋の出窓から十分に釣れた。何とも贅沢な釣りだった。フライにして三倍酢に付けて食べるとおいしかった。
「ドンポ」
割と鈍感なハゼに似た魚で、小さな川の石垣の間にそっと両手を入れて指先の感触で逃がさないように捕まえたものです。確か煮付けで食べて結構おいしかったのを覚えています。
「テンチクバイ」
ハヤとは違って大きめの針に大きなミミズかドジョウをエサにして、一晩お濠に漬けておいて、翌朝引き上げるのが楽しみだった。ウナギかスッポンなら大吉、グーズーならがっくり、ライ魚なら三隣亡。
「奉安殿」
確かに国民学校1年生に通い始めた時には毎朝最敬礼しましたが、終戦で蓋が閉められましたね。6年生に連れられての集団登校でした。
「模型飛行機」
竹ヒゴをローソクの火折り曲げ小麦粉で作ったノリで紙を貼り、運動場で飛ばしました。小生は小型の“スカイホ−ス”が好きでした。上手くできると何分も飛んで運動場から見えなくなります。3分20秒大したものです。飛び過ぎて、行方を追ってお濠のまでよく行ったものですが見つからずの悔しい思いをしたものです。
「シャッパ」
ムツゴロウも勿論ですが、シャッパも高級品になったようですね、お目に掛らなくなりました。懐かしいですね。
「シャ、シュ、シェ、ショ」
当時の佐賀ンもんは皆同じ発音で、東京でも松濤学舎の中では大威張りの標準語でした。
「野球のグラブ」
最初の手にしたには、確かに紙製の薄っぺらなもので、2〜3回球を受けるとすぐ破けました。まともなグラブや道具が出てきたのは中学ぐらいだったでしょうか。当時の男の子は皆野球少年でした。憧れは16番の川上の赤バット、大下の青バットでした。
「嘉瀬川の洪水」
私が覚えているのは嘉瀬川が昭和26年?〜に決壊した時です。この時は確か久保田側に決壊し、久保田の母の里に預けていた我が家のタンス類が水浸しになったのを覚えています。
「唐津の海水浴」
近くににきれいな海のない佐賀ンモンは、海水浴は誰も唐津でしたね。唐津線で1時間程、当時の西の浜は広々とした遠浅のきれいな海でした。今では埋め立てで当時面影はなく、海水浴は東の浜に移っています。
「仁比山」
桑原君の仁比山の話もよく出てきましたよね。仁比山は神崎の先で背振りの麓ですね。桑原君が仁比山に来たのは学齢前でしたか。お父さん共々附小に転校されてきたのは来たのは2年生の時?お父さんの作次校長先生には鬼ごっこなどでよく遊んで貰ったのを覚えています。100歳の長寿を全うされたとか。
「送辞と答辞」
懐かしい呼び方ですね。附小では、桑原君が送辞を村岡國広君が答辞でした。野中の進ちゃんは優秀だったのですね。
「神野のお茶屋」
野中のシンちゃんの家は神野のお茶屋の近くでしたよね。今は三井所君設計のお茶屋があります。シンちゃんの歌には佐賀の西部の様子がよく出てきます。松田君の家が近くでした。野田文男君とか。今有名になった五郎丸の佐賀工業も近いですね。
「予備校」
野中君は浪人して予備校に通っていましたね。私と大学で仲良くなりましたが、予備校での仲良しの友が村岡(国)君だったそうです。二人でよくさぼって映画に行ったとか。村岡君は私の小学校以来の大の親友で、京大農学部を出て森永製菓に勤めていましたが、会社に入って4年目に病を得てなくなりました。荘島君と同時期で二人とも惜しい人材でした。
「ズック」
配給のズックは抽選でなかなか当たりませんでした。運よく当たってもあの通りすぐ破けてしまい悔しい思いをしたものです。配給と言えば、時たまなぜか真っ白なパンが配られ、世の中にこんなうまいものがあるのかと思ったものでした。
思い出すことなど連れずれなるままに書いてみました。進ちゃんが歌など楽しんでいるとは知りませんでした。  (終わり)
コメントはこちらへメールして下さい。その際、文中冒頭に「HPコメント」と記して下さい。 Email
 

<コメント欄>   当欄は上記のメールをコメントとして掲示するものです。