戦後70年の思い出特集

−今日は敗戦記念日−

H27/8/15  さがん
”戦後70年”とも関連しますが、私は毎年8月になると昭和20年の夏に想いを馳せる。 当時を想起しながら、川柳に相応しいかどうか詠んでみました。
(昭和20年8月5日:前橋市も空襲で7-8割焼失、犠牲者数500人以上)
(8月5日―6日)
敵機だ逃げろ 思わず放棄 救急箱 (空襲で家から逃げ出す時の、私の担当は救急箱携行)
逃げ惑う 振り返る目に 紅蓮の炎 (我が住まい)
どっち行く 運命分けた 右左(みぎひだり) (家から飛び出し逃げる道の先が丁字路で、左に行けば田園地帯、右を取れば市街地だが鉄筋の校舎。出くわした人々の間で交わした会話。結果田園方面に犠牲者が出た)
地下室で 耳に焼きつく 焼夷弾 (逃げ込んだ校舎の地下室で聞く投下音・振動)
焼け跡の 無残に黒こげ 蝉哀し (一番の関心事は、前日捕まえた蝉の安否だったが)
一夜明け 校庭変じ 安置所に (夏休みの校庭の片隅が、空襲による焼死体の仮置き場となった)
(8月15日)
玉音の 意味も分からず 立ちつくす (誰も声を発せず、蝉の声のみ)
(昭和20−21年)
晩ご飯 重湯の中に いもの茎
天高く 赤城を仰いで いなご捕り
(食糧難が続き、21年6月に佐賀神埼親戚を頼り転居)
あんたがた どっから来んさった? 童問う (神埼駅を降り、初めて聞いた方言は忘れられない)
(昭和22年、佐賀市に転居)
誰のもの? 写真の我は 戦闘帽 (転校直後の校庭でのクラス写真:戦後の色強し)
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