戦後70年の思い出・所感 特集
思いつくままに(])
H27/11/2 野中 進
今日は生憎の雨。散歩もやめて1日中ゴロゴロしていると、昔を偲ぶ思いに駆られる様です。
あすは晴れの予想で嬉しいですね。もう終わりにしようかと思っていましたが、暇を持て余していた為に、
またまた思いつくままにー]を送ります。
何度も母は箪笥の引き出し開け閉めし、米と交換する着物を選ぶ (野中しん)
(終戦直後で有ったと思うが、着物を包んだ風呂敷を抱え、母に連れられ農家に行ったが地味な着物は受け取って貰えず、がっかりした思い出がある。母が昔着た晴れ着は将来の妹の為と
なかなか手放そうとしなかった為でもある。未だにその時の悪い印象が頭を過ぎり、
最近TPPで日本の農業は全滅だと聞いても余り農家に対し同情の念が湧かない。小生の狭量の所為でもあるが)
雨の日に壊れた傘を思い出し、兄と2人一本の傘で学校に行く (野中しん)
(相当濡れたが風邪をひいたか記憶にない。自転車は1台しかなく父が乗って行った。
小学奨学4年生でやっと自転車に乗れるようになった。
通学は、兄も僕もすべて裸足で約1時間歩いたが、お陰で相当足腰が鍛えられたように思う。)
遠足で母がリュックに入れてくれたリンゴ、食わずに持ち帰り妹弟に与えし (野中しん)
(朝出かけるときに2人が欲しそうに見ていたのを思い出して食えなかった。
当時リンゴは貴重品で、母は相当無理をしていたのを子供心に感じとっていたと思う。
バナナなどは、病気にでもならない限り食べさせて貰えなかった。
長姉を幼き日自家中毒で亡くした為、母は絶対生ものは子どもに与えなかった)
大学では、ナイスガイの石井浩四郎君(通称コーチン)や秀才の槇原紘君(通称マキさん)
や石田忠彦君(後鹿児島大学長)と親しくして貰ったが、金がなくなると、コーチンの下宿に転がり込み、
当時流行り出した即席らーめんの馳走に与った。生卵まで付けて。教科書はすべてコーチンが払い下げてくれた。
持つべきものはよき友と今も感謝の念を禁じ得ない。 (野中しん)
(当時、運よく第2学生寮に入れたが、そこは元柔道場で3人部屋でロープを張ってカーテンで仕切られていた。
2食付きで3千円位で有ったが、奨学金とバイトを加えて食い繋いでいたが、授業料は半額免除となって嬉しかった。
寮生はみんな同じような境遇に有ったので、特に苦しかったという思い出はない。) 終わり
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