戦後70年の思い出・所感 特集
思いつくままに(]T)
H27/11/8 野中 進
此のところ秋晴れの好天が続いてきましたが、今日からはまた雨天続きと予想され秋が足早に去っていく様です。
性懲りもなく表題―?を送ります。
処で、還暦の同窓会で、500マイルを一緒に歌った由、良く覚えていて貰ったものと感激しています。
今は、歌詩を覚えましたが、当時は歌詞を完全には覚えて居なかったので途中参加は迷惑だったろうと恐縮しています。
今は昔を偲んで、どうゆう訳か、FAREWELL JAMAICA をマスター中です。
一寸思い出に繋がる歌詞があるので・・・
ラングーンの日本人墓地で涙する、老婆が一人守するを見て
(旧ビルマのインパール作戦*は史上最も稚拙な作戦と言われ、約10万人の将兵が参加、生還せしもの僅かに1万人、
約7万名がビルマの土となった。乾期の3月に作戦開始、チンドウィン川は乾期の涸れ川で容易に渡河できたが、
後方支援無きまま将兵は飢えと疫病で倒れ、作戦失敗の7月には雨期に入り、
雪解けもあって対岸も見えぬ大河と化し撤退する将兵は渡河出来ず、その殆どが溺死したという。
久留米の56師団は福岡、佐賀、長崎の出身者で編成されたもので、他人事とは思えなかった記憶がある。
あと10年ぐらい先に生まれていたら俺も危なかったなーと感慨に耽ったものである。
それにしても英国人の墓地は広大な敷地の中に、故人の墓標が何百と建てられ、個人名と生年と享年が
はっきりと刻まれていた。勝者と敗者の格差に茫然とさせられた)
沖縄の辺野古埋め立て強行す、県民の声に聞く耳持たず
(・・・沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別のご配慮を賜らんことを 太田実少将)
里の秋3番まで歌ってやっと知る、父の無事を祈る親子の姿を
(最初は里の平和な風景しか浮かばなかったが、後年誰かに3番まで歌ってみろと言われて3番まで歌ってみると、
囲炉裏の前で栗の実を煮ながら、出征している父の無事帰還を祈っている親子の情景が浮かんで来た。
小学校の頃は1番と精々2番までのうろ覚えで有ったと記憶するが,作詞者の本当の意図は全然読めていなかった。)
暇あれば帰ってこいよと兄が云う、3年前に妻を亡くして
(いつもは元気な兄は、この頃一寸弱音を吐くようになった様に思われる。)
括弧書きは短い解説文です。(HP管理者)
その中の「日本軍敗北の責任」なる小節から次の2点を抜粋しておきます。
(1)戦後、日本軍敗北の責任は主に牟田口にあるとする評価が支配的である。
戦時中からも、戦病死した山内正文師団長は、死の床で「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。
第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と語っていた。
(2)また、戸部良一は、『失敗の本質』において、インパール作戦でずさんな計画が実行された原因について、
牟田口軍司令官や河辺方面軍司令官の個人的性格も関連しているが、
より重要なのは「人情」という名の人間関係・組織内融和が優先されて組織の合理性が削がれた点にあると主張している。
以上2点の抜粋から、特に注目すべきは、
(2)の「重要なのは『人情』という名の人間関係・組織内融和が優先されて組織の合理性が削がれた点にある」との指摘だろう。
もう一点は、『失敗の本質』中の、「学習棄却が出来ない構造」という指摘だ。
特に、単語としての「学習棄却」憶えておくべきだろう。
・・・いや、試験のためではなく、実戦のためのに。
(HP管理者)
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