戦後70年の思い出・所感 特集

思いつくままに(U)

H27/10/4  野中 進
しばらく振りです。病状一応小康状態ですが一進一退といったところです。
夢の合間に、我が来し方を振り返ること多く、よくぞ馬齢を重ねて来たものと 反省する今日このごろです。我が人生思いつくままにーUとして駄歌を送ります。
小生本籍佐賀市高木町、孟母三遷ではないが、六座町、厘外町、佐大官舎,神野町 と転々したが転校を拒否、日進小学校に約1〜1.5時間かけて通学、そのため 市内地図はほぼ完全に掌握していた。
鮒釣りを教えし父は辛抱が大事と、動かぬウキをじっとみつめる (野中しん )
所謂はなんと読むのか訊くわれに、即座に答えし母は高小卒 (野中しん )
嘉瀬川が決壊したとき家は床下浸水、兄と二人で現場を見にゆく (野中しん )
今は亡き友と二人で甲羅干した川上川のせせらぎ今は懐かし (野中しん )
レンボイに前夕仕掛けたテンチクバリ、暴れる雷魚に心オドレリ (野中しん )
(レンコン堀)   (短い竹竿に糸と針の先に餌ををつけた)
職員の子は無試験と言われても貧しさ故に行くとは言えない附属中学 (野中しん )
飼っていためんどりの卵をかすめ取り、たなごころのうえの微かな温もり (野中しん )
卵かけご飯の半分をわれに与えて我が父は兄を見やりて微かに微笑む (野中しん )
(兄はじんましんで卵は食せず)
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思いつくままにーU
さがん

野中さんの年初掲載のエッセイ「バッテンボー」を拝読した時、忘れていた子供時代の佐賀の空気感が蘇ったような感じでした。
今回の野中さんの短歌「思いつくままにーT・U・V」もまた、すっかり忘れていた当時(少年時代)のあれこれを思い出す切っ掛けを提供していただいて愉しませてもらいました。

いくつか列挙すると:

「親父さんとの魚釣り」
佐賀にいた頃、私も魚釣り(獲り)に夢中になっていました。親父と一緒の経験は皆無でしたが、釣道具・仕掛けは細い竹で作った自製の竿、糸は木綿糸それに市販の釣針。釣果はフナやドンポ。
雷魚などの大物では折れてしまい、物干し竿のように太い竿に、小さい蛙などを餌に釣ったものです。

「テンチクバリ」
仁比山ではオキバイ(置き針?)と云っていたように記憶しています。その他、竹で編んだ「しょうけ」や魚とりの網「たぶ」など。
因みに、「レンボイ」のように、「リ」を「イ」と発音したり(吉野ケ里)、原を「バル」と言ったり(三田原、右原など)、次々に思い出が拡がります。

「嘉瀬川洪水」
当時は、治水工事が未整備でよく大水で浸水したように想います。

「鶏」「卵」
私も鶏を飼っていて、世話係でしたが、卵を産めなくなった老鶏は、可哀想ですが、(今ではとてもできない!!)締めて食卓へ。(子供は何と残酷)
卵かけごはん、(我が家7人家族)1-2個の卵では満足できる量にありつけず、不満が残る後味でした。
時々へびが出没した記憶もあります。

「附属中」
当時は、教育制度も手探り状態だったのか、附属中進学にはくじ引きがあったり。私の兄も附属小から一年間城南中へ。

以上、それこそ思い出すまま記しました。
(1015/10/7 17:03)