戦後70年の思い出・所感 特集

思いつくままに(\)

H27/10/28  野中 進
文字通り思いつくままに投稿して来ましたが、もしもう少し生きながらえて、いつの日か昔を偲ぶよすがに出来ればと思い、 反省も含めて、性懲りもなく投稿しています。
改造の兵隊背のうランドセル、走れば背中でパタパタと鳴る (野中しん)
(2年生の頃と思うが、僕のあだ名はパタパタ君であった。素敵なランドセル背負っている今の子どもの新入生が羨ましい)
終戦後教師の教え激変し、受ける生徒も戸惑い隠せず (野中しん)
(戦後の教育として“日新会”なるものが出来、その歌が今でも脳裏に焼き付いている。 ♪生まれ変わった平和な日本、強く育てる我が務めー,サーサ行こうよ手を取り合って日新かーいの私だ僕だー。 こんな歌が今でも時々浮かんでくる)
ケンカをし脳しんとうで養護室へ翌朝教師は校門で我が登校を待つ (野中しん)
(5年生の時生意気だと言って6年生にケンカを売られ奮戦したが、壁に頭を打ちつけられた。 翌朝私が登校してくるか教師は余ほど心配だったらしい。 今ならいじめで大騒ぎとなるところで有ろうが、当時は何んという事もなかったように思う。親は今度は勝って来いと)
米兵が進駐した時、教科書の戦争用語を墨で塗り潰せと (野中しん)
(例えば、弁慶が薙刀を持って・・・の場合、弁慶と薙刀を墨で消した。 日に翳すと透けて見えると言って松脂を塗り込み漢字を塗り潰した。 当時余りまともな勉強はせず、マンガ“のらくろ”ばかり読んでいた)
在校生総代で送辞を読めと言われしも、その殆どが教師の草稿 (野中しん)
(他の教師及び父兄から大変良かったと褒められたが5年生の自分はどう表現したものか皆目分からず、 先生が書いた草稿をただ棒読みしただけであった。その恩師は自分が必死に生きていた頃、 若くして亡くなられたと風の便りに聞いた。返す返すも残念でならない・・・合掌)
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