戦後70年の思い出特集
−私の終戦の年の記憶−
H27/8/22 近藤弥生
昭和20年の私の記憶は、70年を経ても、まだ幼かったが恐怖や不安だけが、深く脳裏に刻み込まれている。
私の小学校入学は、その年の4月。海軍の軍人だった父の任地鹿児島県鹿屋町(今は市)だった。
すでに日本は敗戦の色濃く、米機の本土爆撃は日常化していた。
鹿屋は、海軍航空隊の基地があり、連日空襲警報のサイレンにおののいていた。
4月の或る日だったと思う。
米機襲来のサイレンが響いた時、私はいつも眠る時に抱く白い毛布を抱えて家を出た。
が、一瞬遅かった。米機はもう頭上であった。早く!と叔母(父の妹)が手を引いてくれ壕へと走った。
米機は旋回して轟音と共に低空まで下りてきて機銃掃射を放ってきた。私達を標的にしている。弾は地面を突き刺してきた。
恐ろしかった。いつ死ぬかも知れない。小さかったがそう思った。
5月、日を追う毎に戦況は厳しさを増し、鹿児島は米軍が真っ先に上陸するという情報に、
一家は母の実家の宇都宮に疎開が決まった。
身重の母、姉二人と弟の5人。約1500`、その頃の特急(急行?)で2日の移動だった。
汽車は、走ったかと思うと駅でもない所に停まったり、のろのろ徐行したり、
かなりのスピードで走ったりの繰り返しだった。門司では長時間待たされ何時東京に着くか不安が募るばかりであった。
或る駅では、焼けただれた車輌に吊り皮につかまったままの数人の遺体が放置されていた。
大阪の駅は駅舎がなくプラットホームだけ。見渡す限りの焼け野原、動く物は何も無かった。
岐阜駅には、今、燃え尽きたばかりのホームに汽車は滑り込んだ。ホームの柱は小さな炎と煙を吹き燃えていたのだ。
私達は、戦火をくぐり抜けるとてつもない危険な旅をしていたと思う。
米機が空から汽車を爆撃するのは容易であったろう。
命からがらの思いで、やっと宇都宮の祖母の縁者の家に着いたが、その夜が宇都宮空襲であった。
着の身着のままで、薄い布団に眠るか眠らないかの時、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。
家族は離れないように手を繋ぎ合い近くの鬼怒川の堤防にむかった。
宇都宮の駅方面は、炎が上がり空を真っ赤に染めて、あたりは昼の様に明るかった。
人々が、川の上流へ逃げて行く。私たちもその群れの中をひたすら走った。
宇都宮も住める所ではなかった。私たちは、宇都宮の更に奥、鹿沼へ移動しなければならなかった。
祖母の僅かな家財を積んだ馬車で、宇都宮を後にした。冷たい雨が降りしきっていた。
馬車の御車台には幌があったが、姉二人と私は荷台のゴムのシートの中にいた。寒くて寒くて次姉がずーっと泣いていた。
嫌だこんなの嫌だと。その泣き声は今でも耳に残っている。鹿沼では村の旧家の座敷の一間に落ち着いた。
近くには鬼怒川の支流の清らかな流れがあり、空は何処までも澄み渡り、
食べ物が少ない以外は空襲警報もなく穏やかだった。
8月15日(私はその具体的な日付は覚えていない)母も村の大人達も何処かに行ってしまい、村から音が消えた様になった。
しばらくして母が戻り、戦争に負けたと言った。 続く
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