戦後70年の思い出特集

−私の終戦の年の記憶(続)−

H27/8/26  近藤弥生
終戦からしばらくして父が鹿沼に来てくれた。軍の残務処理(横須賀?)の為、横浜の金沢文庫へ移った。 が、終戦直後の食糧難は想像を絶するものだった。空腹は、恐怖でもあった。1カ月そこにいただろうか。 家族の誰かが餓死するかも知れない。
佐賀へ行けば何とかなるだろうと佐賀へ戻る事になった。鈍行で3日の汽車の移動だった。 勿論汽車は蒸気機関車。顔、体は石炭の煤で黒く汚れる。 身も心もボロボロになって、佐賀に辿り着いた時、私たちの唯一の荷物、少ない衣類の入ったカバンを盗まれてしまった。 父は怒って血相を変えた。その怒りは、天を呪っている様に見え、先行きの不安に胸が潰れる思いがした。
川上村の父の実家は農家で家族は11人。 行ってみると食糧は自分たちが、糊口を凌ぐ程度で、私たち7人がお世話になる余裕は無かったのだ。 私たちは、佐賀市駅西通り(今はもう無い)に小さな家を借り父が商売を始めた。 父は戦犯、公職追放になっていた。 家の北側は佐賀駅の構内で、朝から夜まで、貨車が行き先別に引き込み線に誘導されては本線に連結され、 その蒸気機関車の音と振動に揺れるような家だった。 南側はバスも通る広い通りで、人々はその日の食べ物に追われて誰もが疲れてうなだれて見えた。 ジープに乗った米兵だけは悠然と頻繁に往来していた。
父の商売は、金物(のこぎり、鎌や鍋)の卸しをした。 それらは、品物があればよく売れたようだが、品物自体が不足していた。 我が家も貧乏のどん底だったが家族が揃っていられたのは、幸せな時だったと思える。
昭和20年、私は殆ど学校に行っていない。鹿屋、鹿沼、金沢文庫、佐賀川上、佐賀神野と5回転校した。
今 思えば6才は何と幼なかった事か。私の戦争の記憶は、ほんの少しかも知れない。 父や母はどんなに辛く苦しく悲しかったか、これだけは想像を広げなければならないと思う。 私たちよりもっと悲惨で残酷を舐めさせられた多くの人々に対しても。 この悲劇の戦争から、私たちは何よりも代え難い「平和」を学ばせてもらった。 この「記憶」を書いて、私は、更に決意を固める事が出来たと思う。 日本はもとより世界中の人々が心の中に「平和の砦を築こう!」と呼びかけたい。 強く!強く!
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