戦後70年の思い出特集

−失敗の根源的原因と対策−

H27/8/25  石井俊雄
私が戦後70年の節目の年に思うことは、先の戦争、何故こんな馬鹿なことをしたのか、ということ。 今までも、ずーっと考えてきたことだが、個別の点的な理解に留まり、面的な、また、構造的な理解には至らなかった。 この度は戦後70年の節目の年なので、少し時間を掛けて考えてみた。
狙いは、構造的な原因理解だ。
「下手な考え休むに似たり」かも知れないが、やってみなくちゃわからない! 意思のあるところに方法はある。"Where there's a will, there's a way."である。 (寺嶋眞一氏のネット情報「つれづれなるままに」より借用)
8月15日、終戦の時から70年の節目の所為か、戦争に関する報道がマスコミを賑わしていた。 でも、新聞、雑誌、テレビ、などなどを賑わすのは、殆どが既に起こったことについてのことばかり。 肝心な原因に及ぶものは皆無だった。
既に起こったことを語るだけでは、その場限りの話で終わってしまう。 肝心なのは、原因を知り対策できるようにすることではないかというのに。
それで、先の戦争、何故こんな馬鹿なことをしたのか、その原因を考えてみた。 原因は原因でも、目先のことではなく、最上流の本源的な原因を知りたいというのが目的だ。
そんな時、参考にしたのが、山本七平の「空気の研究」、陳舜臣の「日本的中国的」、司馬遼太郎など。 更に、調べるうちに、ネットで見つけたのが、寺嶋眞一氏の書き込みだった。
勿論、専門家でもないので、人に見せるというより、閑つぶしが主な動機。 結果もオリジナリティを問題にするのではなく、自分の腑に落ちるかどうかを基準にした。
結果は、キーワードだけ書くと、「空気」、「アニミズム」、「言葉」、「小共同体」、「歴史」などの要因が浮かんた。 でも、この内、主犯格は、「言葉」ではないかと思ったのだ。
その理由は、人は言葉で考える。 だから、言葉の構造にはその考え方の構造が反映されているものと考えられるというものだ。
その点については、司馬遼太郎の「十六の話」の中の「なによりも国語」から、引用する。
言語は、たれにとっても、誕生のときから、母親の言葉として、耳を通じ、大脳を刺激しつづけてきているものである。 音楽や絵画よりも、一個人の成立にとって、生理的でもあり、原初的でもある。
言葉は、人の感性、悟性、知性、あるいは知性に働きかける唯一の(絵画、写真、数字は補助手段にすぎない) 伝達力をもったものである。
人類の感性、悟性、知性は、文明の出発以来、言語によってできあがってきた。
もし言語がなければ、ギリシャ・ローマの文明も、中国の春秋戦国の文明も、日本の奈良朝以来の、 世界史にとって重要な一部を構成する歴史も、無にひとしくなる。
それらの人類のいとなみは、崩れた石柱、出土品、調度品など、単に遺物にすぎなくなってしまうのである。 言語のみが人間の精神を表現し、構成し、かつ人間に物を考えさせ、創造させる「機能」以上のものなのである。 神すら言語(ロゴス)であると聖書ではいう。
以上から言えるのは、すべての考えは言葉になる。または、人間は言葉で考える、だろう。 となれば、考え方は言葉に反映される、と言えるだろう。 であれば、言語の構造を知ればその言語を話す民族の考え方の特徴が分かり、結果として失敗の原因も解るはず。
そのような考えで、日本語の特徴を調べてみた。 その結果発見したのが、寺嶋眞一氏のネット上の一連の書き込みだ。 今回は、その中から「つれづれなるままに」を要約してみる。 原文はネットに掲載されている。 この文章、小生の理解では、腑に落ちる話だったので、この文章を要約し、失敗の原因を浮かび上がらせる作戦をとった。
要約の方法は、文章を構造化すること。 構造化とは、概念のヒエラルキーを図示することだ。 見た目で、階層構造がわかれば、文章の立体的かつ直感的な理解が得られるというわけだ。
要約結果は、次の通り。
この図の見方は、左に位置するのが上位概念。右に寄るほど下位概念となる。 概念の上下関係を階層構造図で示した。 カッコ内の数字は、原文の段落番号である。なお、原文には段落番号が無いので、原文から段落番号を付すべき文章を抜粋し、 その抜粋文に段落番号を付している。段落番号をクリックすると、原文の抜粋文を参照できるようにした。 カッコ内の文章は、直上に記載されている概念の補助説明である。
日本語特徴の階層構造図
(寺嶋眞一氏「つれづれなるままに」を図化したものである)
言葉(日本語)
この日本語特徴と先の戦争関連の出来事とを対照すれば、かなりの精度で説明がつくだろう。
説明がつくのであれば、以上より、日本語に「時制が無い」と「階称」の存在が、 この大失敗の最上級の原因の一つだということが言えることになる。
戦争関連の出来事とを対照するべき各論の部分はここでは省略する。 何故なら、時間と体力が必要な上、各論の森の中に結論が紛れてしまう可能性が大だから。 だから、ここでは、端的に結論だけを明示するに止めることとする。
階層構造図の中でもとくに注視すべき箇所にはアンダーラインを付しておいた。 特に、「理性判断が出来ない」は致命傷臭い。いくら熱烈な恋人同士でもこうなったら冷めてしまうこと請け合いのレベルのものだ。
もう一つは、「序列思考する」だ。これは出世主義を生む。
原因に対する対策として寺嶋眞一氏は、
その欠陥を補うために、我が国の有識者・知識人は、英語で考える力をも習得する必要があると考えられる。 そうすれば、我が国は知的な面において更なる発展の歩みを確実なものにすることが出来る。
とされている。 私も、その意見に賛成だ。
小生として付け加えるとしたら「国語教育」の立直しと実行である。 国語を「考えを言葉で正確に表現するための国語教育」に変えなければならないと思う。
それから、上図のような「階層構造図」、日本語で書かれた文章に取り入れると、文章の意味がより鮮明になる。 即ち、解釈という余計な作業が不要になるわけだ。 日本語文章の構造化(立体化)、推進したらいいと思う。
英語の場合、よく知らないが、結構立体的なのではないのかな。 前置詞とか関係代名詞とか冠詞などあるから。・・・英語に堪能な人に聞けば、その立体性の程度がどのくらいか、 知ることができるだろう。
ちなみに、プログラミング言語の場合、相当構造化が進んでいる。 日本語も、現在の一次元の線的なものから、構造化すべきだと思う。
もう一つは、「階称(言葉遣い)がある」についてである。これは出世主義を生む。それに上記の理性の無さが加われば、鬼に金棒、 見境がなくなることは目に見えている。独善的短視眼的青年将校の誕生である。 私は、所謂「文民統制」だけでは不十分だと思う。何故なら文民の中で序列思考されたら同じことだからだ。 それよりもっと上のレベルで、エリート層に理性教育を徹底する必要がある。
理性教育とは、物事の軽重を判断する能力を教える、ということだ。 理性教育とは哲学を徹底的に叩き込む、ということでもある。別に、小難しい諸説を暗記させるということではなく、 入門書レベルの基本を分かりやすくきっちり叩き込むというものだ。 正直いえば、我が国民には哲学はない。だが、欧米世界はそれで動いている。 それに伍していくには欠かせない素養だと思う。
もう一つは、哲学は哲学でも第一哲学、中でも自然科学史だ。特に、 ガリレオからニュートン、アインシュタインに至る近代科学史が重要だろう。 論文レベルで、何をどう証明したかを教えないといけない。 目的は、証明とはどういうことかを学ばせるためである。
注意しなければならないのは、教授の人材だ。知ったかぶりの人は駄目。 そのような人は、自分では分からないことを、わかったように教えるから始末が悪い。 それに、このような人は政治力には長けているから厄介だ。人選が大事である。 もう明治維新時のような啓蒙科学教育は不要だろう。じっくり人材を探すとよい。
先の戦争、確かに数々の悲劇を生んだが、嘆き悲しむだけではなく、真の原因を知ることも大事。 何故なら、悲劇を繰り返したくないからである。以上。

「つれづれなるままに」(寺嶋眞一氏作)より抜粋。
ここでは、寺嶋眞一氏のネット上の書き込み「つれづれなるままに」の段落と、上記の「日本語特徴のツリー構造図」 とのリンクをとるために、寺嶋眞一氏のネット上の書き込み「つれづれなるままに」より以下の抜粋を行った。
  1. 英語は、範疇化 (categorizing) と意思決定 (decision making) に優れた言語であるが、 日本語は議論の引き伸ばしに都合のよい言語である。どうして、日本語が議論の引き伸ばしに都合がよいかというと、 日本語では意思決定ができないからである。なぜ意思の決定が出来ないかというと、意思がないからである。 なぜ意思がないかというと、意思 (will) は未来構文の内容であるが、日本語には未来構文がない。 日本語には、なぜ未来構文がないかというと、日本語には時制が (tense) ないからである。
  2. 日本人には意思がない、と考えられることが私にはしばしばあった。意思の内容がない日本人の自発性は、アニマルの自発性のようなものになる。つまり、善悪の見境がつかない。それで、他からの調教が必要になる。日本語の意味する「意志」は、動機付けのようなもので、行動に踏み切るときの気合・掛け声のようなものであることが多い。 良い意思は善意 (goodwill) である。悪い意思は悪意 (ill will) である。善意の人は善人で、悪意の人は悪人である。意思がなければ無邪気 (innocent) である。それで、日本人は子供のようである。無哲学・能天気な大人なのかもしれない。子供のような人たちには、陪審員の役割は荷が重過ぎる。
  3. モーゼの十戒のような’You shall not ….’という判断の基準となる内容も、やはり未来構文の内容であるから日本語では考えることも言い表すことも難しい。基準がなければ、議論において自分の論拠を示すことはできない。だから、議論にはならない。基準を持つことが出来れば、日本人にも理性判断 (rational judgment) が可能になる。
  4. 未来構文の内容と現実構文(現在構文)の内容の比較ならば、現実批判になる。現実構文の内容同士の比較は、横並びの比較になる。横並びの比較は、同次元序列の比較になる。他人のものが欲しくなり、嫉妬心が湧く。子供の頃の悩みである。
  5. 論拠のない日本人が強く訴える動機となるものは、感情である。感情理論という言葉もあるくらいである。感情のことに関しては、わが国民は同情する。我が国には歌詠みの伝統がある。それで、議員さんも県民感情の代表とか、国民感情の代表になる人が多い。酒を飲んでも歌を詠む。戦場に出ても歌を詠む。だが、「感情を抑えて、理性的になれ」という指導者の声には、説得力がない。その要求が現実離れしているからである。
  6. 日本人は、判断の基準をもたないから物事に白黒が付けられない。日本人は議論ができないから「和をもって貴しと為す」が極上の教えとなる。話はエンドレスに成りがちであるから、時間の方を切る。だから、国会議員の方々も苦労されていることが多いと想像できる。もし議論ができれば、理を通すことが貴いことになるはずである。無理が通れば、道理が引っ込む。無理難題には「ご無理、御尤も」と答えるしかない。所詮、議論にはならないのだから。
  7. 日本語には、階称 (言葉遣い) があって、序列表現だけは、はっきりとしている。 それがもとで、日本人は、同次元の序列争いには余念がない。その心を向上心と呼んでいる。 日本人の間の序列関係を知らなければ、正しい日本語表現もままならないが、この指摘をひどく嫌う人がいる。 だが、序列思考を考えないでは、日本精神を説明することは難しい。 わが国民は、天皇に連なっているという感覚が稀に見る良いところなのである。 受験地獄も序列に連なるための励みによって起こる。 日本語は、現実構文のみの言語である。現実構文の内容には、個性が表れることが少ない。 現実構文に表れる個人差は、通常、個人による事実誤認と考えられる。 それで、現実構文ばかりの日本人の発言は、没個性的になっている。 「日本人の意見は、一人聞いたら全部が分かりますよ」という外人もいる。
  8. 日本人の「世の中は、、、、、、。」の発想は、あまくでも自己が規定されるべきものとしての発想である。英米人のような、世の中を自らが規定すべきものとしての発想ではない。それというのも、日本人には基準に関する考えもなく、意思の発想もないからである。万事、受身の発想となるので、万事が受身の姿勢と行動になる。「我が国は、常任理事国として、いかに国連を利用するか」ではなくて、「いかに利用されるか」の問題として捉えるのである。
  9. 意思のあるところに方法はある (Where there’s a will, there’s a way.)。意思がなければ、危機に臨んでも無為無策でいなければならない。傍目にはのんきに見えるが、本人は内心ひどく不安である。日本人に危機管理は難しい。
  10. これでは、当事者として物事に関する責任をとることはできない。国がひっくり返るような惨事に関しても「責任者を出すな」の発言はまともなものと受け取られている。適・不適の判断の難しいアニマルに処罰するようなことになるからである。惨事が起きることも、惨事を避けることも、所詮、個人の責任ではない。これでは、日本人の手による新しい社会の建設などは不可能に見える。 「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と言われている。が、未来構文の内容で合意すれば協調関係に入れるが、現実構文の内容で合意すれば協働関係になる。現実構文の協働関係ばかりが重視されて、しかも無哲学・能天気であるために、小人の国の様相を呈しています。人びとは赤軍派のような同一行動ばかりを強調することになります。
  11. 個人主義は、個人の持つ未来構文の内容を尊重することである。利己主義は、他人をないがしろにする恣意 (私意・我儘・身勝手) である。恣意には、文章構文は必要でなく、子供の小言・片言の類でこと足りる。構文のないところは、察しとか勝手な解釈で補っている。
  12. 全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。 個人主義 (individualism) と利己主義 (egotism) の見境がつかない人が多くみられます。 意思と恣意の区別が容易でないのは、日本語に未来構文がないからだと考えられる。
  13. 日本語は、内向きの言葉である。「今ある姿」の内容は、とかくヒソヒソ話になりやすい。誰が聞いてもありえる事柄の内容である。その論争は、事実関係の調べに終わる。英語は、外向きの言葉である。「あるべき姿」の内容は、公言するのに適している。個人の思い付きが、その内容だからである。その論争は哲学論争に及ぶ。英米流の学問は議論により発展する。だから、彼らの学問に参加するためには、ぜひとも英語を習得する必要がある。
  14. 日本語は、現実の世界に神経を集中させる言語である。日本語は、目先・手先の能力を増進させ、日本人に優れた細工物を造らせ、その結果が技術立国ニッポンを作った。その技術は、我が国を世界第二の経済大国へと押し上げた。我々に今日の繁栄があるのは、日本語の特性のお蔭だが、日本語にも知的な面での欠陥がある。日本人の考えには、未来永劫の次元から見た批判が抜けている。その欠陥を補うために、我が国の有識者・知識人は、英語で考える力をも習得する必要があると考えられる。そうすれば、我が国は知的な面において更なる発展の歩みを確実なものにすることが出来る。

「言語と考え方」(寺嶋眞一氏作)より抜粋。
「時制がない」とはどのようなことかを説明するために、 寺嶋眞一氏のネット上の書き込み「言語と考え方」より以下の抜粋を行った。
  1. 「私は今散歩する(している)・・・・現在」は、現在完了時制に相当するものでしょう。 目の前にある満月を「出た出た月が・・・・」と歌うようなもので、過去の内容ではない。 もちろん過去の内容のこともあるが、時制が過去というのではない。 時制は、「今」とか「昨日」とか「明日」とかの言葉を使って時系列で表わすものではない。 考えの上での隔絶した次元の異なる内容を、構文を使って異なる表現様式で表わすものであると考えます。
  2. 「私は明日散歩するだろう・・・・未来」は、自分自身を現在の世界において、未来のことを推定しているのである。 話者は、決して未来に身をおいて断定はしていない。時制のない日本語脳では未来の内容を断定することは難しい。 未来時制を使えば、'I will take a walk.' と推定でなく断定できる。 「・・・・だろう」は推定で、推定の上に推定を重ねる「だろう」の連続で考えていては、 確実な未来計画は立案できないでしょう。 その内容は、眉唾物になるでしょうね。
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