戦後71年目の夏に想うこと
石井俊雄
今日は、昭和20年8月15日の終戦以来、71年目の日である。
今、思うと、何故、あのような無謀な戦争をしたのかと、不思議な気がするが、その原因について、少しだけ、
思うことを書いてみることにした。
日本人は神代以来、2000年近くを、殆ど、日本列島の海岸線を地平線にした世界で暮らしてきた。
例外的な出来事はあったにしても、殆ど、その外の世界とは無縁でやってこれた世界でも稀有な国だった。
その証は、「日本一」という言葉が、「世界一」の意味を以って用いられたことから、自明である。
そんな、言わば、深窓育ちのお嬢さんお坊ちゃんが、明治維新を機に、世界との交渉を持った。
そして、図らずも、日清・日露の戦争に勝利し、舞い上がってしまったのだ。
その延長上に太平洋戦争がある。
原因は、いろいろ言われるが、根本原因は、国民レベルで舞い上がったことにある。
本来的には、その舞い上がりに歯止めをかけるべきだったが、それに失敗した。
恐らく、舞い上がってるという意識はなかっただろう。
明治維新の功労者が元気なころは、それでもなんとかやってこられたが、その人たちが亡くなった後、
その遺産を引き継いだ指導レベルの人材が、お粗末極まりなかった。
国民レベルの舞い上がり状態にブレーキを掛けるほど知性を持ち合わせていなかったのだ。
指導レベルの人材は、冷静・沈着に、世界情勢を掌握し、国民レベルの舞い上がりを認識し抑制すべきだったが、自ら、
舞い上がりに便乗し、あろうことか鼓舞することすらして、終に、敗戦という破局をもたらした。
真に、この破局は、自らが招いた悲劇であった。
私は、この悲劇を繰り返さないためには、次のことが肝要だと思う。
- 言葉や文章が出来事なり思想なりを正確に表現できるものであること。
理由は、言葉は真実を表す唯一の道具だからである。それに曖昧さが多すぎると真実が呆けてくる。
もっと、一意的な表現ができる言葉にしないといけない。
- 国民一人一人が、理性的であること。理由は、民主主義が堕落しないためにである。
- 理性的な指導レベルの人材を育てること。気合だけとか、自己目的の強い人は駄目。
くれぐれも言っておくが、かの戦争の原因は、
にあることを忘れてはいけない。
殆どの人が、自分は被害者だと思っていることが問題ではある。自分のしたことを知らないのだ。
忘れていけないのは、戦争の結果ではなく原因である。
二言目には、平和平和、と連呼する人に、原因をどう理解しているのか訊いてみたい。
その連呼が、戦争原因に対し、有効な方法なら結構なことだ。
だが、的外れなら、気休めに過ぎなくなる。
真の原因を探り当て、手を打つべきだ。病気のときのように。
そんな意味で、真の原因を探り当てたつもりだが、皆さん、どう思われますか。
重要なのは、夫々、自分なりの考えを持つことだと思う。
仮令、独断と偏見に満ちたものであっても、他人の所為にするよりはいい。
これからも世の中は続いていく。我々の終焉は、世界の終焉ではない。
子や孫の生きる世界が続くのだ。
その世界が、平穏であれと祈ることで、平穏なら、祈るのにやぶさかではないが、祈るだけでは、効果はないだろう。
となると、世界の他の国々と伍して丁々発止とやっていくしかなくなる。
その時、我々が経験した失敗を繰り返すことがないような賢明な国民でなければならない。
それが歴史に学ぶということである。
歴史に学ぶとは、年表を記憶することではない。原因を知ることである。
そのような意味で、先に挙げた3点が欠かせないと思う。
少し書き足そう。
それは、語り部のこと。
テレビなどで、戦争体験者が、小学生や若い人に、戦争体験を語っている場面がある。
その語りの内容は、「戦争の悲惨さを訴え、だから戦争は絶対にしてはいけない」と、いうものだ。
だが、このような内容では、受け取る方の所感するところは、可哀想、大変でしたね!で終わりとなる。
何故なら、そのような悲惨な結果を招いた原因が語られてないからだ。
原因は戦争だ、というかも知れないが、それでは浅薄過ぎる。
原因を「戦争」として、だから「戦争反対」では、安易過ぎる。幼児並みである。
わざわざ聴きにくるほどの話ではない。
本当の原因が置いてけぼりになっている。肝心なのは原因なのに、その方は、各自考えなさい、というわけだろうか。
私に言わせれば、この貴重な時間をチャンスとして、戦争の悲惨さだけでなく、原因を語るべきである。
聴く方は、そこまで聴いてこそ、自分の向後の生き方の参考になるというものであろう。
聴いたものが、あるいは鵜呑みにできないものであったとしても、それはそれで批判すればよい。
原因ぬきの戦争体験の結語は、実質的に「私って可哀想なんです」となる。
これじゃ、人情話だ。
また、大変さの実体験を語って、「だから戦争は駄目よ!」、というのもあるだろう。
この場合は、脅迫状だ。こんな思いしたくなければ戦争するな!というわけだからね。
語りの目的は、同情を得るのでも、脅迫でもなく、この悲劇を繰り返さない、というもののはず。
そうであれば、原因を結語としたレポート形式の語りにするべきだ。
原因について、語るほどの知見を持たないなら、その部分を別の専門家に語らせればよい。
戦争体験者と歴史専門家の組み合わせ、ためになる語りとなるだろう。
要するに、情緒的ではなく、理性的であれ、というわけだ。
別な言葉で言えば、人情本・脅迫状の類から実用書へ、かな。
(2016/8/16 追記)
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