三途の川ぶらり旅

山口 孝一郎

その3(チビ、ハゲ、デブは金払え)

人は皆自分の弱さを知り、『自然界の圧倒的な力の凄さ』に怯え、不安を抱えながら生きて来ている。だから、何時我が身に降り掛かるかも知れない不測の事態に備えて『少しでも良かれ』と毎日努力し、精進を重ねているのだ。
それなのに『宗教』は民衆のこの不安を逆手に取って、勝手に『戒律』なるものを制定し、『戒律』を犯した者は『罪人(つみびと)だ!』と容赦なく決めつけて説教をする。
この『戒律網』は先ずは大まかな『大綱』(自分を産み、育ててくれた親の恩を忘れてはいけない等)から始まり、次第に網の目は繊細な掟となり、しまいには一〇〇人中の一〇〇人が、一網打尽 戒律に抵触しないで人生を通過できない様に創り上げられている。
曰く
一、生き物を殺してはいけない。
一、他人の物を盗んではいけない。
一、不邪淫(淫らな性交はダメ)
一、ウソをついてはいけない。
一、不飲酒(酒はダメ)
……と、ある
刺身やステーキ、塩から、そして・うなぎの蒲焼きなど、生き物の命を奪い、味付けをして食べてしまう等、言語道断、とんでもない話しなのだ。 と、なれば 全ての戒律をクリアして、生きて行ける人間などいない。
宗教はそのような事は百も承知の上で、戒律を破った者は全員『罪人』ときめつけている。おかげで、善良な市民は全員『罪人』とされてしまうのだ。
だが、市民にとって『罪人』のレッテルなどは、痛くも痒くもない。なぜなら、正直で非力な小市民には『今日を生き抜かないと、明日はない』のだから。
先ずは自分が精一杯『今日』と言う日を生きて、『明日』を生きる我が子や家族を無事に守り得た『今日』と云う日に感謝して、自分の『業(わざ)』を精一杯成し終えた疲労感を『褒美』と感じて眠りに就いているのだ。
『罪人』呼ばわりされる謂れなど、何処にもない。
それなのに、浮世離れをした厚かましい宗教家達は、辻辻に衆生を集めては、あなたは『罪人です!』と責め立てて、免罪と交換に『寄付』を迫っている。
曰く。(あなた方は…。)
○ あなた方は何の罪も無いのに、なぜ貧困にあえいでいるのですか?
○ あなた方は何の罪も無いのに、なぜ不運にあえいでいるのですか?
○ あなた方は何の罪も無いのに、なぜ病弱にあえいでいるのですか?
○ あなた方は何の罪も無いのに、なぜ○○に苦しんでいるのですか? と。
答えは明快。
『今の苦しみの原因は、すべて自分の「前世の罪の報い」だからです。』と、説くのです。
そして、『今、この前世の自分の「罪」を悔い改めなければ、…
あなたの今の惨めな生活は、死ぬまで続きます。何故なら、あなたの『罪』は何一つ消えてはいないからです。しかも この苦しみは『あなただけ』ではありません。あなたの子・孫・そして子孫へと延々と続きます。
それだけでは有りません。『罪人のあなた自身が(罪人のまま)』次に生まれて来る時、あなたへの『報い』はその体型や体質や環境に厳然と現れて来るのです。あなたが罪人のまま人生を閉じ、次に産まれて来る時の姿は、もう確定しています。知りたい人には教えてあげましょう。
先ず、『体型』は『ちび・禿・デブ』
『体質』は『病弱・短命。さらに、吐く息は臭く、性器は短小』とあります。
そして、もしあなたが、重罪者だとなれば、何回生まれ変わっても、この『業(ごう=差別)は永遠に改善されず、身分は低く『下層雑色(下層階級に生き、捨て置かれた布の端切れを身にまとって寒さを凌ぐ人)・人非人(にんぴにん=人とは言えない様な姿で生まれ 人とは言えない様な考えを持っている人)・あるいは、食吐餓鬼(じきとがき=他人が吐き出した汚物を食べて飢えを凌ぎ、命をつなぐ人間)となり、例外無く餓鬼道(がきどう)に転落します!』と声高に説教するのだ。
(じゃあ、誤って『戒』を犯してしまったオイラはドウすれば良いのだ!)と、脛に傷をおぼえる正直な小市民等は心の中で秘かに狼狽えてしまうのだ。
その時
「安心するがいい、救いの手は用意してあります。」と、導師の有り難い説教が始まるのだ。
『どんな罪でも その犯した罪の重大さを知り、悔い改める事を神仏に誓い、金品を歓喜して神仏や導師に進んで献ずれば「罪」は許される』と、経文に認めてあると説く。
「よくも まあ! 何の恥じらいも無く ヌケヌケと言えたものだ!」と、迫ってみると。
「これは、悟りを得た聖者の教えナリ! 逆らうベカラズ!」
「偽りのない生命の輪廻(りんね)の不思議『摂理』ナリ!」と大声を出して説教に力を入れるのだ。
ならば、「その証拠は?」と糾すと。
「あなたの『謂れの無い現状の困窮』が摂理の正しさを明確に示しています」
さらに「あなたの希望は永遠に実現することはなないのです。」と、『言い逃れ』のような返事が返って来た。
こうした『献金贖罪』の方程式は仏教だけでなく、キリスト教や回教にも共通している様だ。
だが聖者と崇められている高僧が泥棒から献金を受け『あなたの罪は許された!』と『無罪放免』の引導を渡す姿を想像すると、
聖者の姿は餓鬼道をさまよう哀れな『食吐餓鬼(じきとがき)』の姿にオーバーラップしてしまう。
だが、これは仏陀が示す聖者の『化城諭(けじょうゆ)』なのかも知れない。
日本では、伝来したばかりの仏教を庶民に流布するにあたり『地獄・極楽』の絵図を開帳して説明をしている。
これ等の絵は人間の躾とも言える『小乗教の戒律』を人間の視力に訴えて説明をしたもので、布教活動には絶大な力を発揮している。
例えば、閻魔大王の足元に
『三枚墓地』から三枚聖(さんまいひじり)が死人(ウソを抱えこんで死んで行った人)を掘り起こし、閻魔大王の前に引きずり出して『生前のウソ』を裁く様子を事細かに描き出している。心の奥にウソを秘めながら絵図を見る参拝者の肝を震えあがらせ、『ウソはダメ!』の戒律を見事に『説教』している。
なかでも『破戒』の罪を償う『地獄絵』は参拝者の度肝を潰して怖れられた。
腕を背中の骨に縫い付けられて針の山に追い立てられる者。『ウソつきの咎』で舌をヤットコ(ペンチの親分の様なもの)で引き抜かれる者。『姦通罪』で身体を串刺しにされて、油の壷に浸けられ、その後火焙りにされる者。『無益な殺傷の罪』で鬼畜の牙で身体を引きちぎられて食われる者 等々。
阿鼻叫喚の地獄絵は『因果応報』の掟を諭しながら、衆生の心を掴み、生活の中に『仏教』を急速に浸透させている。
藤吉は何処かに『閻魔大王の屋城』でもないか?と、対岸を見据えた。
目を凝らして暫くすると、ズーム現象が発生し良く見えて来る。川辺を見ると、エプロン男が川沿いの道で足を止めて、こちらを見上げている。
暫くすると、藤吉を見付けたのか、奇岩の不思議に誘われたのか踵を返して分かれ道に向かって戻りはじめた。かなりのスピードだ。頭を左右に振って、エプロンを摘んで走っている。急ぐ事は何も無いのに、セッカチな野郎だ。
・・・次回へ続く
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