晩酌パブの『いろは唄』

山口 孝一郎

迷子の『ま』・間違いの『ま』・マサカの『マ』
(昭和五十年代後半?の晩秋)

「孔子曰く『四〇にして惑わず』と。だが,俺は それは違うと思う。
何故なら 俺は四〇才の頃 定年後の楽隠居(らくいんきょ)を夢見て『惑わず・脇目も振らず』仕事に頑張ったからサ。周りの誰よりもね……。」
先刻からグダグダと 独り言を並べているカウンターの客の相手をしていた ママさんは 客を残して 店の奥に行ってしまった。
「だがよう!」と、独りでカウンターの止まり木に残された客は 少しばかり声を大きくして叫んでいる。
「今、六〇才の定年を目前にしている周りの先輩達の様子を見ているとよう みんな元気が無いんだよネ。 気の毒だけどよう。殆どの上司や先輩達が口を揃えて『こんな筈じゃあナカッタ!』って戸惑っているんだよネ。」
「みんな心の中で『定年後の楽隠居』を楽しみにして働いていたんだとよ。
若い時なら 少しくらい苦しくてもさ。
『自分達の楽しい老後』の夢を見てサ。懸命に働いて来たんだよね。みんなで楽しくさサ。でも、オイ等を含めて全員『四〇にして騙された』んだよね。バカだから。」
このボヤキ男の声はだんだん大きくなって行く。当然周りの客達にも聞こえてはいるが、誰も同調して聞いている様子はない。
「だってよオ『四〇にして惑わず』って事はよ 四〇になった時に『俺の人生はこの生き方で善し!』『ず〜っと良し。死ぬまで良し!』って納得して生きるって言う事だろう? 
自分が正しいと思った事に迷わずに邁進(まいしん)していれば 必ず幸せに成れるって言う事なんだろう? 昔の偉い人が言っているんだからさあ。
なア〜玄さん。そうだよなア 玄さん。
あの頃『戦後生まれ第一世』のオイ等はさあ 中学を出ると『集団就職』で日本中の田舎から東京や大阪に出て行ったもんだよネ。田舎の貧乏百姓には、次男坊や三男坊は『イラナイ!から』と、言われてサ!
目の前の高度成長と技術革新で得た 今の生活の便利さは『俺達世代の頑張りの証だよ』と言い聞かされてさ! 誇りにさえ思って働いていたんだよネ。 なあ 玄さん。
まさか こんな事になろうとは思っても見なかったよ。
これは正に『四〇にして騙された!』って事だったんだよねエ 玄さん。
それによう 玄さん 今頃になって気付いたんだけど 定年で退職してから年金を貰うまでさア 五年間も在るんだってさ! 無収入で如何やって生きろって言うんだろうね?」
「………」
「そうだろう 玄さん。全く情けねえ話しだぜ!『パートで働く、女房殿に食わせて貰えっ』ってか? 
結局はそう言う事だよなア 玄さん。おいらは もう働かないんだからサ。
そして、退職金を食いつぶしてしまいそうに成った頃によう。ヤット年金を貰える歳にたどり着くんだよネ。
それでもよオ 喜んで色々計算してみるとよオ。 オイラは楽隠居なんか出来ないんだよナ。 一生カツカツの貧乏暮らしだぜ!
だけどさア、こうしてヤット年金を受け取って 自分の足元をヨ〜ク見てみるとさあ〜、今度はよう 心配だらけだぜ!
早い話しがさあ『この年金だけで死ぬまで食って行けるのか?』って事だよね。俺は『絶対に食っては行けない!』と思うよ!
全く不安だらけで ヤになっちゃうよ…。
だって 計算すると まだ住宅のローンもイッパイのこっているしヨウ!。 しかも 年金は額面から色々諸掛かりを差し引いて振り込まれるって言うじゃあないか。
歳をとると 若い頃の暴飲暴食の祟り(たたり)も出て来たりしてさあ。病気にもなるだろうしよう! 不安がイッパイだよ。全く!
これじゃあよう! オイラは あまりにも可哀想過ぎだよ! なア 玄さん」
「……」
先刻から『玄さん』と呼ばれながら、何の返事もしないで黙って聞いている この男は ガッチリとした体格で 何事にもあまり動じないような風貌をしている紳士だ。
『玄さん』は先刻から さかんに呼びかけられているが、先刻から黙ってカウンターの自分のジョッキを見つめたままだ。話しは聞いているようだが、反応する気配はない。
歳格好は『孔子様に言いがかりを付け』て、自分の老後を嘆いている紀村一平(四十五才=推察)と同年代と見える。
この紀村一平はママさんが『一平ちゃん』と呼ぶから皆がそう呼んでいるし、
『玄さん』も又同じ理由でここでは『嘉納玄三』さん などと厳つい本名で呼ぶ客はいない。
玄さんは不思議な男だ。何時もネクタイをキチンと締め、手入れの行き届いた高級そうなスーツ姿で現れる。路地裏の一杯飲み屋ではあまり見かけないダンディーな紳士だ。
それに会社の同僚や趣味の仲間などと言った同伴者と一緒にこの酒場に現れて談笑する姿を見かけた事もない。いつも予告無しで突然 独りで現れるが、過去には海外勤務でもしていたのか 予告無しでプッツリと 二年近くも姿を見せない事も何回かあったと言う。
玄さんは暫く黙ってうつむいていたが、残っていたビールを半分ほど飲み干すとジョッキを静かにテーブルに置きながら呟いた。
「でもナ 一平ちゃん。 俺はブッキラボウな言い方しか出来ないけど、可哀想なのはあんただけじゃないし 真面目に働いた者も 一平ちゃんだけじぁなかったと思うよ。恥ずかしながら 俺等が若かった頃と言えば 『物造り日本』『経済大国日本』と言うスローガンに踊らされて皆 懸命に働いていたんだよ。
敗戦国の日本人が、『負けてはならじ!』・『馬鹿にされてはならじ!』と、まだまだ 発展の途中だった日本経済の足腰のよわさも知らされずにね。
『井の中』で調教された企業戦士達は 命令されるまま、臆面もなく肩を威らして世界中に『資源』と『エネルギー』を求めて飛び出して行ったんだよ。
だから、あの頃の我々には『自分の生き方が間違ってないか?』などと考える暇も知恵もなかったんじゃあ ないのかねェ」     
玄さんのツブヤキはマダ途中だと言うのに一平がそれを遮った。 
「そうかい そうだよネ 玄さんは大手の企業にお勤めのご様子だからナ。 日本のエリートさん達の人生は四〇にして惑わないのが 正解なんだよね。 大船に乗ってる人種だからよ。転覆の心配は無用だし、退職金もいっぱい貰えることだろうしよォ…。」
小さな店を借りて酒を商うママさん達は
『今日も どうかいい商いが出来ます様に』と祈る様な気持ちで店をあける。それなのに  この日は口開け(くちあけ)だと言うのに一平の絡み付くような言動で店の中には今にも喧嘩が始まりそうな気まずい空気が流れてしまった。
「…退職金もいっぱい貰えることだしヨオ」と言う一平の捨てゼリフに玄さんは不機嫌な顔つきで口を閉じて 黙ってしまっていたが、しばらく しばらくして 玄さんは再び口を開いた。
「…… 違うよ、一平ちゃん。俺はそんな事を言ってるんじゃないよ。あの頃の俺等は『惑う』ことも『疑う』ことも知らなかったよ。それに『年金』なんてあまり充てにしてなかったし、途中で会社を辞めると 年金を解約して積立てていた金を『一時金』として貰った人もイッパイ居たじゃないか」
「……」
「それを今頃になって『騙された!』『俺の老後を如何してくれる!』ッてのは 少し筋が違う様に思えるよ。ハッキリ言わせてもらえば、随分と身勝手な話だと思うよ。
だいいち『騙された!』って言うけど、一平ちゃん あんたは一体誰に騙されたと言いたいのよ?
政治家かい? 大蔵省の官僚かい? それとも『孔子様』かい?」
「……」
「何だかさあ 今夜の一平ちゃんの話を聞いていると、何時もの一平ちゃんらしくないよ。不都合な事は全部他人の所為にしてさ。
何処かの駆け出しの政治屋が自分の人気取りの為にさ 街角に立って、拳を振り上げてさあ。不満を喚き(わめき)散らしている ウルサイ連中と同類にしか見えないよ」
「何ッ!」一平が声を荒げた。
「中身の無い薄っぺらなアジ演説の受け売りの様にしか聞こえないッて事だよ」
玄さんはボソリと呟いた。
すると次の瞬間 一平はいきなり立ち上がり、隣の店にまで響き渡りそうな大声を上げた。
「聞き捨てならねエ! 表に出ろ!」
振り上げたコップをテーブルに叩き付けて、玄さんを睨んでいる。辺りにはコップの中の酒が激しく飛び散り玄さんのジャケットも濡らしてしまっていた。
だが玄さんはピクリとも動かない。一向に怯むようすも見えない。
「一平ちゃんよゥ 俺はあんたを諭すほど偉くもないし、知識も人生経験も無いよ。 だがね、
俺は一平ちゃんを何でも話せる友達だと思っているよ。だから、そんなに怒らないで一平ちゃんとは少しばかり違うけど、俺の考えも聞いてくれよ」
「……。」
「世の中はさ 善悪までも含めて全ての事が『道理』に従って流れているんだと俺は思うよ。この『道理』ってものは簡単な現象だから、誰にでもスグに分かる事だけど、どうしても逆らえない事なんだよ。
例えば『生まれた者は必ず死ぬ』なんて言うのが道理だよ。これは誰でも納得しているし、誰もが逆らえない宇宙の現象だよ」
「もう!玄さん 一平ちゃんと喧嘩になるかとおもったよ。そんな訳の分かんない事言ってないで、ホラ 酒! 酒!」
ママが二人の間に割って入った。
「一平ちゃんも一平ちゃんだよ。大きな声を出してサ」
ママはさすがに客扱いのプロだ。玄さんと一平のコップをサッサと片付けるとカウンターを拭き、新しいコップに酒を注いだ。そして
「この酒 オゴリじゃないからネッ! オカワリだからネッ」と言い残して奥に消えた。
玄さんの説得は続いた。
「歳をとるってのも『道理』だから避けて通れる人はいないよ。でも『どう歳をとるか』は個人の勝手だよ。だからこれは『道理』じゃないよね。
一平ちゃんは今『この年金じゃあ不十分だ。老後は不安でイツッパイだ!』と本気で言ってるよね。その不安は俺も同じだよ。
でもね、『表に出ろ!』と怒らないで もう少し聞いてもらいたいけど、アフリカの草食動物達は歳をとって、のろまになると たちまち腹を空かした肉食獣に 生きたまま食われなければならないんだよ。この『弱肉強食』は残酷だけど 自然界の『道理』なんだよね。
『生者必滅・弱肉強食』の道理は非情にもピクリとも譲歩はナシなんだよね。
だから俺は、人間の老後の有り様も本来ならば これと全く同じくらいにシビアで残酷なものだと思っているよ。
だけど、我々人間は幸いにも知恵と知能を持っているんだよね。だから その人間の『知能』が親兄弟を認識し、友人を作り、この厳しい『道理』の中であまりにもアカラサマな残酷さは無くしたいと知恵をしぼって来たんじゃないかと思うんだよね。
何世代にも渡って『目上の人を敬う』とか、『親を大切にする』とか、少しばかり考えの違う人達を説得しながら 我慢と改革とを重ねて やっと今 お互いを助け合う心を積み上げて『年金』と言う『制度』を造り上げるところまで たどり着いた処だと思うよ。やっとの事でね。
もっともこれは人類の中でも まだまだ先進国だけのはなしだがね。
そう言うふうに思えば、一平ちゃん 年金を貰える我々が『不足』を叫ぶのは如何(いかが)なものだろうか?」
玄さん特有の説得が始まり、どうやら一平の怒りも少し修まった様子だ。
一平は老後の不足をいきなり摺り替えられた様子で納得はしていないが、何だか文句も言えない様な妙な気分になっていた。
「… う。…うん?」
「それによう 孔子様が諭した『四十にして惑わず』って言うことは『四十に成る時までに 自分の人生に迷わないように心がけなさいよ!  人生に(生き方に)迷わないように、四十才を迎えるまでに、確りと自分の財(たから=役に立つもの・才能、手腕、技術)を手に入れておけ!』 と諭している言葉だと思うよ。」
「財 ……?」
「一平ちゃんよう おいらは この酒場で『人生を楽しく生きよう!』 って誓った仲じゃあないか! 年金の足りない分は ユックリと 稼げば良いんだよ。
遊べば『金』は消えて行くけど、稼げば『金』は少しずつ増えて行くんだからよ。
これは 避けて通れない『道理』だよ。一平ちゃん!」
「……。」
一平は暫く自分の拳(こぶし)を見据えて 考え込んでいる様子だったが、やがて顔を上げると、何かを納得したのだろうか。
眉を開いて 空っぽのコップを玄さんに渡し、無言で なみなみと日本酒を注ぎ、自分のコップにも同じ様に酒を注いだ。
そして 玄さんの顔を覗き込むと 再び動かなくなってしまった。
すこしの間 二人の間には 重い空気が流れていたが、しばらくして 二人の顔に笑みが流れると 二人は 静かに手打ちの乾杯を始めた。
「ン だな!」と、一平が笑った。
「お互い 健康に気をつけながら な!」と、玄さん。
「あんまり怒るなよ! 怒ると 血圧は上がるし、良い事ないゾ!」と、一平。
(玄三はそれはお前さんのことだろう? と思ったが…)
「ン だよな! これから先も よろしくな!」と、玄。
こうして、この夜は スッカリ冷めてしまった『日本酒』 での清々しい乾杯となった。
・・・次回へ続く
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