晩酌パブの『いろは唄』

山口 孝一郎

隠居の『い』・命の『い』

「日本には つい百年くらい前まで『隠居』というシキタリが在ってさ、年寄りは元気なうちに隠居部屋を建ててそこに住み、 家督の一切を次世代の若者に譲って人生を締めくくったと言う話を聞いたよ。

 隠居人は『不足は言わない、助けを求めない、若い人達の邪魔をしない』と言うのが無言の決まりだったらしい。
 しかも隠居部屋にはカマドがないから、母屋から食餌が運ばれて来なかったら 黙って何も食べないで何日でも待ったと言うから偉いよ」

「玄さん、それって凄くない?」ママがコップを片手に加わって来た。
「ウン、凄い話だよ。隠居の逸話は日本中に いっぱいあるけど、どの話も聞けば聞くほど『もの凄い根性話』だよね。」

「ご飯を持って来ないからっつて、何も食べないで待ってるなんて、相当意地がわるいよね。持って行かない方も、催促しない方も。」
「でも、かまどが無いのだから、待つしか無いんだよ。多分……。」
 その日は先程まで不機嫌な様子だった一平が口を挟んだ。(原因不明?誰も理由は聞かない)どうやら先程までの不機嫌は少し修まった様子だ。

「そう言えば昔 姥捨て山の『楢山節考』だったっけ? 映画を見た事があるよ。あれは 何だか暗?い話しの 映画だったなァ」
「何よ一平ちゃん。その『ナラヤマ何たら』って?」
 この質問に玄さんと一平達はママとの年代の隔たりを感じて、思わず顔をみあわせたが、話題は玄さんが引き継いでママに説明を始めた。

「この『楢山節考』の話もね、ヤッパリ死ぬ前の年寄りの話だけど 『隠居』が出来るような金持ち達とは真逆の最後を迎える貧乏な老人達の話なんだよ。
 幾つもの山を分け入った集落で代々暮らす貧しい人々の生活の知恵が生んだ悲しい別れの話なんだよね」
玄さんは見て来た様な口調で話始めた。

「村の人達は 読み書きも満足にはできない人達だけど、どの家もすごく家族思いで 親を中心に仲がよくて勤勉な人々なんだよ。
 だけど、山里の気候は厳しく、米は出来ないし、年中風は強く 切立った山間(やまあい)の土地は痩せていて、雑穀の育ちも悪く どの家でも食べるのがヤットなんだよ。
 赤ん坊が生まれても、七日目の晩にはコンニャク玉を頬張らせて、顔には白い布を掛け『今度産まれる時は、腹いっぱい食える家に生まれてケロ』って涙ながらに拝んだと言うんだよ」

 チイママは此のての話を聞くのは初めてらしく、ビックリした顔で玄さんの口元に見入っている。
「エッ!」とママは息を詰まらせている。
「そんな情景を想像すると、言葉も喉に詰まって声に成らないよ。もうこれ以上は無いと言うほどの荒(すさ)ましい貧困だよね。こんな山奥の集落には、赤子をコンニャク玉で『あの世』に送ったように、村人の命を繋ぐために 歳を取った親を葬る壮絶な『掟』が生まれたんだよね。きっと。

 これが『楢山まいり』と言う行事でさ。
『七十才を超えた年寄りは集落に居てはいけない』という昔からの掟が有ったんだって言うんだよ。
 だから親が七十才に近づくと、仲良しの家族はだんだん無口に成り、村を出て行く親達は気を使って その分反対に陽気に振る舞ったと言うんだよね。
 そして、いよいよ明日は七十才と言う晩に 子供達が寝静まるのを待って、息子が自分の母親を背負子(しょいこ)に乗せて『姥捨て山』に登るんだよ」

「玄さん それって殺人じゃあない。ヤバくない?」突然ママが叫んだ。
ヤッパリ年代の差は否めない。
「ママそんな簡単な物語じゃあないんだよ。これは」
「ゴメンなさい」ママはピョコリと頭を下げた。

「道中は息が詰まるような沈黙だよ。

(言葉少ない母子の会話は悲しすぎて、可哀想すぎて読んでるうちに 涙で活字が曇ったのを今でも覚えてるよ。あの頃は 俺もまだ子供だったから 夕方に成ると怖かったよなァ。……。)
 夜が更けて子供達が眠りにつくと、嫁が何も言わずにソット握り飯を懐に忍ばせてくれるんだよね。 自分達は粟飯や稗の粥(ひえのかゆ)で飢えを凌いで工面したのか ごま塩をまぶした白米のオニギリだよ。
 嫁の気持ちが嬉しくて頭を垂れると、婆さんの素足の指に涙が落ちるんだ。『アリガトよ!』ってね。
そこで嫁とは別れるのだが、もう孫たちの寝顔は見る事は許されないのだ。
 声にならない声で『達者でな! 孫達を たのむな!』と互いの額をコツンと会わせ お互いに相手の涙を指で拭くと 婆様は倅(せがれ)の背負子(しょいこ)の人となるんだよ。

 細い山道は月の光だけが頼り 泣き濡れて地面に伏せる嫁の姿もたちまち闇の中に溶け込んでしまうのだ。
 七つ谷の最後の坂を過ぎて 急な登り坂を暫く登るといよいよ山道も終点。その先にはもう道はない。
 背負子を降りると 婆様は息子との別れ際に
『おれには もうメシはいらねェ みんなで食ってケロ。何が有っても皆で助け合うんだぞ、おれはここからオメエをみおくるでなァ、くれぐれも 皆で仲良くなァ。たっしゃでなァ〜…。 振り向くんじゃあネエぞ!.…。』
と言って懐の飯を倅に手渡す家族想いの老婆……。
って話が『楢山節考』なんだよ」

「フ〜ン。玄さんって何でも知ってるのね」とママ。
見るとママの目の中には溢れそうになった涙が溜まっていた。
 どうやら『楢山節考』の人情話は若いママにも年代を超えて心に響くものが伝わった様子だった。

・・・次回へ続く
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