晩酌パブの『いろは唄』

山口 孝一郎

ペットの『ぺ』 猫の手の『ね』 人間らしさの『に』

 嘉納玄三は会合の場所が箱根湯本から急遽三島に変更されたとの知らせを受けて新幹線の三島駅に降り立っていた。久しぶりに清々しい表富士の稜線を期待していたのだが、生憎と厚い雲がたれ込めて、富士山の方角さえ分からなかった。
 会合は昼前に始まり、三時過ぎに終わった。図解付きの資料ファイルが配布され、イヤホーンから流されて 無機質な説明が終わると資料はすべて回収された。昼食はナシ。質問ナシ。同じ資料の同じ説明が十分間の休憩をはさんで三回流れて終了した。
 玄三は講習が終わって講習会の部屋を出たものの、暫くの間何も考えられなかった。三島には懐かしい思い出も有ったのだが、駅周辺の町並みは見違える程に開発されていた。見知らぬ都会に変貌した町並みを 今さら散策する気にもなれず、朦朧とした意識のまま 脚のむくままに乗車券を買い 東京へ向かった。
 車中でもまだ脳みその中は何の感情も回復出来ないままだった。
無機質なデータの解析とその分析方法とをイヤホーンを通して 脳ミソの中に 無理矢理 思考を遮断した異物を叩き込まれたショックは大きく、意識はぼんやりとして そう簡単には人間様の感覚には戻れなかった。
 暫くして自分の意識が少し戻ると、人間の心の文明を置き去りにして突き進む文明(科学?)の急速な発展に想いを馳せていた。
(人類の『心』に未来の繁栄は在るのか? 消滅? 破壊か?)と。

 乗車して座席につくと玄三は子供の頃の 蒸気機関車に牽引された列車の車窓から眺めた次第に移り往く田舎の景色を懐かしく憶いだしていた。
車輪が線路の継ぎ目を刻む『ゴトン・ゴトン』と言うレトロなリズムなどを 懐かしく想い出していた。
 だが列車が音も無く動き出すと一瞬にして『レトロな思い出』は砕け散ってしまった。
車窓のすぐ手前の景色は目にも止まらない速さで、何本かの「線」になって流れて行った。線路に継ぎ目は無く「ゴトン・ゴトン コテン・コテン」と言うレトロな響きは無い。
「ゴーッ」と言う空気の摩擦音と、「ビュワーッ」と言うトンネルを突き抜ける時の圧縮された空気の炸裂音とを繰り返して三十分で百キロ先の駅に到着するのだ。これでは心の文明が追いつける訳が無いかも? と思った。
 玄三は心の中で「オイ!お前、そんなに急いで 何処へ行く?」と自問して、苦笑した。

 東京は雨とのこと。玄三は勤務先に連絡を取ると、新横浜で下車。JRと私鉄を乗り継いで自宅に向かう事にした。
 駅を降りて何時もの店に立寄って見ようとか思ったが、まだ開店までには随分と時間が有る。まだ店は開いていないと思った。
 だからと言っても 他に行く処は知らない。当然のことながら、無意識のうちに脚はいつもの店に向かっていた。
 店が見えると 案の定、暖簾もマダ出ていない(ヤッパリな!)。
それでも 何となく店に向かって歩いて行くと 忽ち店に辿り着いてしまった、店の扉は開かない事を承知で、引き戸に手を掛けてみた。すると?
『カラカラカラ』扉は開いた。ビックリしながら店に入ると、
「ア〜ラ 玄さんじゃないの。珍しいわね。こんなに早く!何か有ったの?」
 思いがけなくも扉が開いて、玄さんもビックリ。気を良くした玄三は咄嗟にフザケたくなって軽口を叩いてしまった。
「うん、何も無いよ。でも、会社、首になっちまったよ」
「エッ! 嘘でしょう」
 ママの飛び上がらんばかりの反応に、玄三は狼狽え(うろたえ)て直ぐに訂正した。
「嘘だよ! ゴメン ゴメン。もちろん嘘でした。ゴメンナサイ!」
「モウ、びっくりしたよ。いきなり脅かさないでよ。常連さんが又一人減ったかと思ったよ」
「そうだよな。ママは金のことしか頭に無いもんな、色気もナイけどね」
 掛け合い漫才のようなやりとりの内にも、ママの手は機械の様に動き、手早くおしぼりと、お通しが出された。
「さすがママだね。手早く段取りしてくれてさ。何だか大切にして貰ってる様な気分になって嬉しいよ。でもさ、このお通し 昨日の残りじゃないよね」

「モウ玄さん!いい加減にして。今日は他にもお客様がいるんだから!
『ピンポ〜ン! 大当たり! 昨日の残りでした。』な〜んて言ってみたいところだけどさ、安心してよ。 ちゃんと器もピカピカに洗って
殿方のお帰りをお待ち申し上げて居りました。」
 勿論昨日の残り物などを出す訳はないのだが、そう言ってママは悪戯(いたずら)っぽい顔でわらった。

「ヤッパリそうか! こりゃあ冗談キツ過ぎたかなあ。確かめるんじゃなかったよ。店の品格まで傷を付けてしまってさ、ゴメンよ。でも、こんな冗談にも チャンと付き合ってもらって、今日の俺には有難たいよ。これでやっと人間に戻った気になりました。」
 朝から会議とは名ばかりの 問答無用の講習会に打ちのめされていた玄三にとっては このハードギャグは良い塩梅(あんばい)に 人間への蘇生剤となって、玄さんの身体を通過していった。
 目まぐるしく進化する情報社会で発生すると思われる新型の犯罪に対応する為の講習会だった。セキュリテイシステムのバージョンアップを伝達する講習会で、特別職を招集しての会合だった。
 このての 私語無用、質問無用の講習会の出席者はまるでロボットのメンテナンスと同じ様な扱いを受けた。

 例えば、突然『国家の機密を保つため』今日から『1+1=3』にいたします。くれぐれも間違えのない様にお願いいたします。と言った塩梅だ。
 朝からこんな講習を受けさせられれば誰しもおかしくなる。玄三も解放された時には全身にすっかりストレスを貯め込んでしまって 人間の思考感覚を失っていた。
 そして講習が終っても このストレスから抜け出せないまま、新幹線で新横浜駅に降り立ち、家路に就いたのだが、いつの間にか この店に立寄っていたのだった。

 玄三はカウンタの一番奥の席に見知らぬ女性が一人いる事は店に入った時から承知していた。
「伸ちゃん(のぶちゃん)紹介するね。この人が こないだ話をした おおママの時からのお客さんよ。若く見えるでしょう。でももうすぐ定年だってさ。  みんなは『玄さん』って呼んでるのよ。何か聞いてみると良いよ。ナンでも知ってるから」

「はじめまして伸子(のぶこ)です。妹がママに親しくしてもらってるんです」
「そうでしたか、妹さんにはまだお会いしたことはありませんが、機会があったら是非お会いしたいですね」

「やぁ〜だ玄さん。何回も会ってるくせに。ほら、時々手伝いに来てもらってる洋子だよ」
「あっ、あの洋子さんのお姉さんか。そうでしたか、なかなか活達なお嬢さんで、あの人が居れば店の中が賑やかになりますよ」

「玄さん、のぶちゃんはね 今日は愚痴を言いに来たのよ。」
「そうでしたか じゃあ これはゴメンなさい。一杯戴いたら 早々に退散しますから。」

「いいのよ 玄さん もう話しは終ったんだから。のぶチャンのダンナがちっとも働らいてくれないんだって。だから アタマに来て久しぶりに『愚痴り』に来てたのよ。
 のぶチャンには 小さい子供さんが 二人いるんだけどね、毎日家事とパートと、育児で それは それは モー大変だってさ。

 それなのにダンナは会社から帰って来ても 何もしてくれないんだって こどもの面倒も見ようとしないんだってさ」

「そうでしたか。僕は『嘉納玄三』です。『玄さん』と呼んで貰えば気がらくですがね。『決して怪しい者では有りません』と言いたいところですが、実はほとんど『怪しい男』です。 用心してお付き合いください」

 玄さんは商売がら、店の敷居を跨いだ時から見知らぬ女性の存在を視界の片隅で抑えていた。そして『敵ではナイ』との判断をしていた。初対面のこの客も 玄さんとママとの会話が始まるまえに 玄さんの風貌から『敵ではなさそう』と判断していたようだった。
 だから玄さんの『怪しい男』ですと言うへんな自己紹介で、反対に『全く怪しくないオジサン』と断定し、すでに 玄さんにはなんとなく初対面ではないような親しみすらを覚えていた。

「いきなり『ダンナが ちっとも働かない』って聞いたからさ『これは困った問題だ』と思ったよ。
 でも 伸子さんのダンナが家に帰ってから『何もしないんじゃあなくて、何も手伝わない』だけなら 結構な話じゃあないですか。」
「如何してよ? 何処が結構なのよ!」とママ。
「だってさあ 給料はチャンと持って来るんだろう?」
「当たり前ジャン!」
「だったら 何も腹を立てる事は無いんじゃあ ないのかなア」
「ドウしてさ! 何も手伝わないんだよ! 伸チャンは もう朝から動きっぱなしで ヘトヘトなんだよ」

「あっ そうでしたか ところでママ。ママはペットを飼った事有るかい?」
「あるよ。それがドウしたのよ?」 
「じゃあ 良く解ると思うけど、ママはペットに何かしてもらった事有るかい? 茶碗を洗うとか、拭き掃除をするとか さあ」
「急にバカ言わないでよ! そんな事 ペットがする訳ないでしょう!」

「そうだよね じゃあ ママが『猫の手も借りたい』ほど忙しい時に 何も手伝わないで ペットがママの様子をジ〜ッと 見ていたら 腹が立つかい?」
「立つわけ ないでしょう! そんなもの。」

「じゃあ ペットから お金貰った事有るかい?」
「在る訳ないでしょう! バカバカしい。そんなペットが居るんなら 私何匹でも飼っちゃうわよ!」
「オイオイ、何匹も飼ってもらってもこまるけどさ、伸子さんの旦那は何にも手伝わないから、伸子さんには悪いけど、旦那はペットとおなじだよね。」
「……? だったら どうなのサ!」
「だから旦那を『ペット』だと思えばさ ドウだろうね?って事。何もしてくれなくてもいいんだよね ペットなんだからサ 腹は立たないよね。」
「……。」
「旦那はペットだから 何もしてくれなくても腹は立たないよね。ペットは自分の事だって何もしなくても 怒られないんだよ。ケツだって拭かなくても良いんだよ。」
「バカ!」
「伸子さんの旦那は、何か言っても どうせ何もしてくれないんだから、
『私のペットだ』と、少しばかり、考えを変えれば ずいぶんと気は楽になると思うよ。そう考えると 伸子さんの旦那は良いペットですよ! ケツの周りは自分で始末をするし、お金は稼いで来るしね!」
「玄さんの バカ!」ママも伸子さんも笑った。

「見方をチョット変えれば 伸子さんのダンナは即『有り難すぎるダンナ様』ですよ。
ママだって『何匹も飼いたい』と言ってるくらいですから!」

「パートに出て気を使い、そのうえに家事をして 育児をすれば、此れは本当にメチャクチャ疲れるだろうね。
 でもこれも この際 考え方を 少しばかり変えて
『たいへんだ!』『たいへんだ!』とばかり思わずに 反対に『当たり前』・『有り難い事ですよ!』と思えばどうだろう?
 私は『この子達の 親で良かった!』・『人間で良かった!』とは、思えないだろうか?
ストレスや愚痴も 友達のこの店に来て 存分にバラ蒔けることだしさ。」
 ママと伸さんは顔を見合わせて笑った。

「ヤッパリ 今日はここに顔を出して正解でした。突然のオジャマ虫には成っちまったけどね。
 おれは おかげ様で『人間』に戻れました。ママ今日はありがとうネ!」
そう言い残すと、玄さんはテーブルに『札』を置いて 後ろ向きにバイバイと手をふりながら店を後にして姿をけした。
・・・次回へ続く
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