三途の川ぶらり旅

山口 孝一郎

その1(ほとりにて)

この日、三途の川は増水していた。台風でも通過した直後なのか、川幅を広げ濁った水を満々とたたえて滔々と流れていた。とても息絶えた死者が手っ甲脚はんに身を整えてトボトボと杖をついて渉れる様なおだやかな川の姿ではなかった。
藤吉は「何でここを渉らなければならないんだ?」と思ったが、次々に岸辺に到着した人々は ためらいも無く黙って川に入り、渡りはじめている。だが、川に脚を踏み入れた人達は忽ち激しい流れに足を取られ、濁流に呑まれて溺れながらプカプカと流されて行く。
「俺はイヤだ。水が引いてから渉ろう」
藤吉は岸辺の岩に腰を下ろすと、何の抵抗もなく濁流に流されて行く人々を眺めていた。だが、何時まで待っても一向に水が引く気配はない。
藤吉は記憶がいささか朦朧とするなかで、自分が授かった寿命をまっとうし、家族だけで見送ってくれた質素な荼毘の葬儀の様子を想い出していた。
石工を生業にしていたため、石の欠片で網膜を痛め、視力は殆ど失っていたのだが、有り難い事に死んでみると視力は殆ど回復していた。
冥土という世界は不思議な事ばかりだ。
先ず腹が減らないし、夜がない。だから『シバラク』という時間はない。「ずーっと」待った時間が、「1時間」なのか「1年」なのか?が判らない。暑くもないし、寒くもない。だから、流されて行く人々の服装はマチマチだ。白装束が大半を占めているが、裸も居るし褞袍(どてら)もいる。背広もジャージもいる。中には鉢巻き姿で気合いの入った者もいる。
「そこの人、渡し場はどこですか?」
突然声を掛けられて藤吉はビックリして振り返った。すると、奇妙な格好の男が立っている。
デカイ丸顔の男だ。五十五?六?と見た。まん丸で焼きたてのピザみたいな顔をしている。生きている時は相当なメタボだったらしく、腹の皮が醜くたるんで腰骨に引っ掛かっている。医者に頼んで、腹の脂肪だけを強引に吸引したら、皮だけが残ったのだろうか?いかにも歩きにくそうだ。
「知らないよ」藤吉はブッキラボウに返事をした。
「そう邪見に言わないで教えてください。」
「知らない物は、知らないよ。」
「では、渡し場は、ドッチだとおもいますか?」
腹の皮をだらりと下げて川上と川下とを交互に指差している。
藤吉はこのピザ顔の男の馴れ馴れしさと厚かましさに『ムッと』来た。
「………」無視。
(コノ野郎!『俺が知っていて教えない』とでもいうのか? ブクブク肥りやがって、性根の悪い野郎だ!)藤吉は半分怒って無視を続けた。
すると、暫くして
「もう歩けないし、僕は泳げないんです」
男はそう言って暫く藤吉のそばに立っていたのだが、腹の皮が重いのか、やおら、垂れ下がった腹の皮をエプロンの様に膝のうえに広げて藤吉の傍に座り込んでしまった。
「もう歩けないし、泳げないし……」
聞こえよがしに独り言を云う。
「………」無視、無視。
「ホントにもう歩けないし…」
藤吉は無視を続けた。
「ホントに泳げないし…」
「じゃあ、黙って気が済むまで座っていればイイじゃあないか! 全くブツブツと耳の傍で呟きやがってヨウ! ウルセエ野郎だぜ! おまえは!」
藤吉は吐き捨てる様に言い残して立ち上がると、スタスタと上流に向かって歩きだした。
注意して観ると、上流でも、川の様子に変化は無く、上流からは絶え間なく人と言わず、動物といわず、色々な物が流れてきていた。
なんとも奇妙な光景だ。しばらく観察をしながら歩いていると、背後に人の気配をかんじた。驚いて振り返って見ると、有ろう事かエプロン男が腹の皮を抱えて『ハアハア』と息を弾ませながら追って来ている。藤吉が立ち止まると、傍まできて
「独りだと 淋しいし… 不安だし、待っててくれて有り難う」と言う。
まん丸で焼きたてのピザが、にっこりと笑った。
(気持ちの悪い奴だ!)
「淋しいのは あんたの勝手。それに俺はアンタを待っててやったツモリはないから。勝手に礼を言うなよ。歩けなければ、サッサと流れに飛び込めよ! お前さんは川の向こう岸に行きたいんだろう? 泳げなくても クヨクヨ心配するな。コノ意気地なし野郎! 言って置くが、お前はモウもう死んでるんだからナ! 何一つ心配する様なことは無いんだよ!」
職人気質の藤吉は荒々しい言葉をなげ付けた。
すると、エプロンは少しの間肩をすぼめてオトナシクして居たのだが、離れる様子はない。… 暫くして
「もう一回くらいなら 死んでもいいけど、何かの間違いで生き返ってしまうかも知れないし……。」と呟いた。
「バカこくな! イチイチ、屁理屈をいうんじゃあナイゾ!」
「バカなんかこいて居ません。僕は馬鹿じゃあ有りませんから。それに これは屁理屈じゃあ有りません。可能性の問題です。」
「バカ野郎! 可能性だと? んならドウなるかサッサと川に飛び込んでみたらドウだ!」
「それは出来ません。僕は、如何(どう)なるか分からないような『不確実』な事は致しません。それに、言っておきますが、私はチャンとした教育を受けているし、バカでもない積もりです。」
「チャンとした教育? 笑わせるな! オマエさんの云う『教育』なんざあ そんなものは『教育』じゃあナイよ。それは多分『卒業証明書』って云うんだよ。教育を受けたんじゃアなくて、授業料を親が払ったというだけの事だよ。言い換えればヨウ、お前サンの親がアンタに『学歴』とやらを金で買ってあげただけの事。オマエさんには『教育』なんて物は何も身についてないよ。
学校には行っても、多分何も学びきれないでヨウ、自分勝手な屁理屈ばかりを捏ねて、遊び惚けていたんだろう!
お前さんは『授業料』を『四年間』とか『六年間』とか支払ってもらって『貴重な時間』をむだに通過して来たんだな きっと。」
「そうでしょうか?」 「『そうでしょうか?』だと! そうに決まっているだろうよ! 第一 見ず知らずの人間を捕まえて、聞かれてもいないのに『私には教育があります!』なんて云うか? この『教養ナシ』め!」
「… … …」
「それに、お前さんの身体は もう焼かれてしまっていて、どこにも無いんだぞ。どう間違えれば、生き返られるんだヨ! 生き返るスジが有るんなら、コチトラにも教えてもらいてえモンだぜ! マッタく!」
藤吉は(ドウダ!と云わんばかりに)胸を張った。
すると、ピザ男はシュンとして、おとなしくなった。だが暫くすると、またしても、ピザは小さな声でささやいた。
「身体なんかはなくても、オバケなら あるカ? ナあー…なんて?」と半分笑いながら呟いた。
この時 藤吉は一瞬(なるほど オバケなら 有りか?)と思ってしまった。
その瞬間、かすかに藤吉の表情がエプロンの考え方のほうに泳いだ。
その時のかすかな藤吉の表情の変化をエプロンはとらえていた。そしてそれは一瞬の事だったが、職人風情を見下した『蔑み』ともみえる『自分が優位』という心の内の動きを顔の中に流した。
そのかすかな表情を 長い間、客と対話して注文を受け、客の心の中を読み取って石を彫り、客の心の奥に潜む微妙な注文に応え抜いて来た ベテランの職人が見逃すことは有り得ない。
(バカ野郎にバカにされた!)
藤吉は すかさずピザ男のまん丸な顔面をヒッパタイてやろうとおもった。
しかし、ここは引っ叩いても、痛くも痒くもない『黄泉(よみ)』の世界だ。その様な仕打ちは通用しない。叩いて見ても、何の意味も無い世界だ。
それでも『プライド』とか『欲』とかと言う感情は前世と何の変わりもなく存在しているから不思議だ。
・・・次回へ続く
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