三途の川ぶらり旅

山口 孝一郎

その4(教養は心のオシャレ)

「待っててくれると思っていました。」
やがてエプロン男は息を弾ませながら到着し、ニコニコ顔で隣に腰をおろした。
「堰(せき)が有りますよ。アッ人が引掛かっている。アッいっぱい人間が架かっていますよ。…。ホラ堰が幾つも有ります。」
どうやら、エプロン男にもズーム現象は起こっているらしく、子供の様に腰をおろすことを忘れて興奮している。
「あれは『堰(せき)』じゃあない。『梁(やな)』と言うものだ!」
「そうでした。梁でした。」
(コノ野郎 急に素直になりやがった)
藤吉は隣で立っていられると落ち着かないから、『腰を降ろしたらどうだ!』と促し、エプロンが腰をおろして暫くすると声をかけた。
「ところで アンタ生きている時は何屋さんだったんだね?」
「エッ、何屋さん? ……」エプロンは暫く考えていた様子だったが、
「何屋さんでも有りませんでした」と答えた。
「…ン? 何屋さんでもない?」
「ハイ、何屋さんでも有りませんでした。」
「ヘえ…そうかい? じゃ『金持ちさん』かい?」
「金持ちじゃあ有りません。」
(この野郎! 又ふざけた事を言い出しやがった)
「嫁さんは? 子供は?」
藤吉はたたみ掛けて聞いた。
「そんなの いませんよ。独身だったから。」
エプロンは当然の様に言う。だが、石工職人だった藤吉には この男の生きている時の生活の様子が想像できないで考え込んだ。そして、しばらくして、
「……? そうか! 勤め人か」
「勤め人じゃありません。働いたことはありませんし。」
「エッ! 働いた事がない? ……分かったゾ! お前さん ズーと病人だったんだろう! 何病だったんだ?」
「病気じゃあ有りません。ず?と健康でした。腹が減って死ぬまでは。」
「……?」
(この野郎! ますます変な野郎だ!)
この エプロン男、俗名 生田宗明(いくた むねあき)と言い、生まれも育ちも鎌倉である。生家は古く、かつて鎌倉の八幡様の周りの山中に点在したと言われている『武家(北条一門)の隠れ屋敷』の一つだった。父親は県の幹部役人で、近所に親しく馴染む事はなかった。母は寡黙な人で、贅沢を知らない人だったとエプロンは母を偲びながら説明をした。
宗明は母に言われるままに勉強し、薦められるままに地元で有名な中・高・大と進学している。幼少の頃も近所の悪ガキと遊ぶ事もなく、大学に進んでからも品行方正で、親友も出来ないまま、『学士』の称号を得て、卒業している。
宗明は大学三年の秋、突然父親を失っている。そして宗明は就職戦線を前にして世間知らずの母一人、子独りの生活に入っている。
今でも宗明は心の奥底に『自分が就職出来なかったのは肝心な時に父親を失い、適切なアドバイスを貰えなかったから…。』という、トンデモナイ考え違いをやどしていた。
宗明が三十才になった頃、母は時々呟いていた。
『いい会社に入って、いいお嫁さんが来るといいね』と。
宗明は『四季報』を読み、世界経済の発展に照らして、就職したい会社の成長や動向・人脈を入念に調べて毎年三社(当然ながら、日本の超一流会社)を選び、書類を整えて就職の出願をした。だが、面接の通知を得ても、採用される事はなかった。
宗明が四十才に成った時、母は呟いた。
『家にはお金が沢山有る訳ではないから、早く就職出来ればうれしいね』と。
やがて日本の経済は宗明の分析を尻目にオドロキの成長を成し遂げ、手抜きを許さない誠実な技術に支えられて「物造り日本」の評価を得、実業界は凄まじい発展を遂げた。
此の頃 宗明は焦りにも似た気持ちで『これぞ』と思う会社を探しては履歴書を頻繁に送り、意欲的に資格も取得している。
母は裏山を造成して売りに出すことにしたのだが、たまたま北条氏終焉の地に近かったため、なかなか造成の認可が下りなかった。
結局、造成中に歴史的な遺構や埋蔵物が出土した場合は『調査が終了するまで工事を中断する』と言う条件付きで許可された。宗明は役所に通ううちに『宅建主任者』の資格を得ている。頭も良く、誠実でなかなかの努力家でもある。
背丈もあり、顔立ちもさほど悪くはない。多少肥り気味ではあるが、病的な太り方は見当らない。(生前の写真)
宗明には取り立てて言う程の趣味は無かったが、時々アルバイトのお金が入ると小町通りの酒店でワインを買い求め、母と二人で楽しんだ。
母は何時もグラスワインを一杯だけしか飲まなかったが、一杯のワインを時間をかけて嗜んだ。少し口に含むと目を閉じて口腔に広がる薫りをゆっくりと確かめた。あたかも誰にも明かせない 胸の内に秘めた哀楽を酒に打ち明けているかのようだった、と。
宗明の母は、一杯のワインを飲み干すと、静かに二・三回軽く頷いて空っぽになったグラスをコースターにもどした。
そして目を開けると、晴々とした表情を浮かべて、「あー、ごちそう様でした。明日から又がんばれるね。」と言った
宗明はそうした時に、何才か若くなったような 晴々とした母の顔が見たくて時々ワインを買い求めて帰宅した。
宗明が五十才に成ると 母は生田家所有の全ての山を売り、古くなってしまった家を取り壊して小さなマンションを建てた。
そして、最上階の一角を自宅にした。高齢に成って 三階まで登るのは大変な負担になることも考慮したうえで、日当りの良さと、上階からの生活音を嫌っての判断だった。
母は最上階での生活を三年間楽しみ、一度も入院する事も無く、灯明が燃えつきるように、静かに生涯を閉じた。
賢母は一度の不満も苦言も言わなかったが、不甲斐ない我が子の行く末を心配し、どれほど悩んだ事だろうか。
何の相談も無く全財産を処分し、賃貸のマンションを残してこの世を去ったこの母は『賢母』だったのか? ともあれ 享年八十四歳。静かな一生だった。
宗明は眼下に『三途の川』を見渡しながら、久しぶりに母を偲んだ。そして呟いた。
「母もここを歩いたのでしょか? ここに腰をおろしたのでしょうか?」と。
独りで不安げに歩く母を想像しているように呟いた。
(母も あの岸辺の梁にうごめく妖怪に身包みを剥ぎ取られたのだろうか?)
藤吉は川辺と丘の中間のあたりを眺めて憶いに耽っているエプロン男を見ているうちに、この男をヤッツケル気力はすっかり無くなってしまっていた。
「さあて、出かけるか! お前さんも気をつけて行きなされや」
藤吉がそう言い残して立ちあがると、
「ま、待ってください。」
エプロン男は立ち上がろうとする藤吉の袖を引っ張らんばかりにして懇願した。
『私はどうやら人生を失敗したようです』
宗明は自分の育ちから、思いに反した生き様などを回顧しながら正直に打ち明けた。そして、母との死別後 自分で遺産相続の手続きをした事・何一つ隠さず、正直に申告。母が残した賃貸のマンションを処分して『遺産相続の税金』を支払った事、その結果自分の住処を失い、やむなく公営住宅に移り住んだ事。自分の不遇を嘆き、反動で好きな物を制限無く食べながら、履歴書を送り続けるうちに、ハリセンボンの河豚のように丸々と肥ってしまった事。
そして、何年もしないうちにお金が尽き、家賃が滞り、電気がストップし、水道の水に塩を溶かして空腹を凌いでいる中に、身体の衰弱は歩けない程に進行し、そして『孤独死』に至ってしまったこと・等々。ぜーん部を藤吉に披露して問いかけてきた。
・・・次回へ続く
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