桑原君追悼

石井ト
去る3月17日、桑原の訃報が届いた。
ご舎弟からのメールで知らされたのだ。
彼とは小学校からの友達で、嫌味の無い明朗なキャラと冗談が通じることで気が合った。
彼の親爺は、当時、佐賀師範学校付属小学校と称した小学校の校長先生だった。 だが、その息子にしては陽気な秀才で、それを自慢する気配は微塵もなく、付き合い易い友だった。
私より仲がよかったのが末安だ。 彼も、嫌味のない何でも受け容れる度量の大きい男で、陽気で開放的というキャラで気が合ったようである。酒も強かったが。
今回のことで、一番ショックを受けたのは私だ。
私は、我が儘なとこがあって、結構好き嫌いが出る方だが、この二人、それに文句ひとつ言わず受け容れてくれていた。 井上、不破、馬場、高取、などもそう、ぐっと飲みこんでくれていた。
彼らは、皆、既に鬼籍にある。その中に今回桑原が加わったのだ。恐らく大歓迎されているだろう。
だが、この世では、私が泣いている。
昔を共にした人を失うのは辛い。昔を語る相手がいないからだ。 そんな寂しいことって他にあるだろうか。
この歳になると、そんな寂しさに耐えなければならなくなる。 これが老いの途だ。孤独ともいう。
漱石に依れば、「智に働けば角が立つ情に棹させば流される意地を通せば窮屈だとかくに人の世は住みにくい」だが、「友を送れば猶更だ」と付けよう。
最後に、桑原とのやり取りの一番近いものを記しておく。
桑原とのやり取りの最後のもの
  1. 写真
    全陶展(2018/10/19)にて。
  2. 川柳
    令和元年(2019)九月の川柳連歌
    故郷は 大水害で 全国区 (さがん)
    台風一過 炎熱地獄 置き土産 (さがん)
  3. メール
    私が出した「附中ランチ同窓会を終えて」なるメールへの返信(2019/11/13)だ。
    内容は、「石井トさん、懐かしい顔ぶれ、一人一人の所作も蘇る。身体的には参加できる状態だと思うが、千載一遇のチャンス残念。次回参加を願いつつとりあえず一報深謝。桑原」
  4. 電話
    1年程前、桑原宅に電話して彼と話をしたが、残念ながら日時が思い出せない。会話の中身は鮮明に憶えているが。
彼とは、ここ1年余、殆ど音信が途絶えていた。 こちらからは度々メールで音信の回復を図ったが、応答はなかった。
そんな中、谷川君からは、「最近桑原との交信が途絶えているが、何か情報はないか?」との問い合わせもあった。
だから、思い余って一度、桑原宅に電話したことがある。そしたら、若々しいクリーンな女声の応対があって、取り次いでもらい本人と話が出来た。 思えばこれが最後の会話だった。
開口一番、私は云った。「今出られたのは娘さんか?」と。ところが彼は意外なことをいって私を驚かせた。
曰く「いやー、あれは家内だよ!」と。
これには驚いた。何故なら、奥さんは可成りお体の調子が良くないと彼から聞いていたからだ。
「若々しいクリーンな声だったから娘さんかと思った」と私は、繕った。
「調子のいい時もあるのだよ!」と彼。
この話、いつのことだか思い出せず、小生の日記をここ数日探しまくったが見つからず、これが私のストレスとなって夜な夜な夢に出たりする。 そんな昔ではなく、ここ一年ほど前のこととの印象が残っているだけ。 これを、上の4番目に記したかったが果たせていない。
こんな時、人が感じるのが喪失感ではないだろうか。彼が生きてれば訊けたのに!というわけである。 このように、今までは何時でも好きな時に出来たことが、いきなり出来なくなる、どう足掻いても出来なくなる。・・・これが死によってもたらさせる不自由だ。 この不自由を前にして、人は無能を自覚し天を仰ぐのだ。
そして知る、忘れることを。
長谷川伸の関の弥太っぺの台詞が頭に浮かぶ。
「…お嬢さん。この娑婆には辛い事、悲しい事がたくさんある。だが忘れるこった。忘れて日が暮れりゃあ明日になる。…ああ、明日も天気か」
最後に、桑原君の入った写真を2葉、着けておきます。1枚は、上で紹介した全陶展でのもの。もう1つは、その年の4月の花見の時の写真です。 2枚とも、結構アップで写ってるのを採りました。
01
2018年10月19日の全陶展見学の際の写真です。
東京都美術館の2階にある「上野精養軒」で昼食の際のワンショット。手前左が桑原君。筒井さんもおられます。
 
02
2018年4月3日の「花見とクルーズ」の際の写真です。
中央区人形町の甘酒横丁の志乃田寿司本舗前で撮ったもの。
 
 
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