末安宗明君を偲ぶ

桑原峰征
生涯の心友ともいうべき友が逝った。
彼とは、小学3年の秋、私が神崎仁比山小から佐賀付属小に転入してから、中学1年までの5年間クラスが一緒。その間なぜか馬が合って、よく彼の家に遊びに行った。当時彼の家は敷地が1000坪ほどあり、庭には立派な蔵があった。二人で探検と称して、蔵の中を検めたものだ。埃を被った戦前発行の「のらくろ上等兵」、「タンクたんくろう」、「岩見重太郎」や少年倶楽部などを見つけたときの興奮、むさぼり読んだ。
彼は、漫画を描くのが上手で、年賀状の宛名にあだ名を書き、裏面に禿げ頭の漫画を描くなどの茶目っ気もあった。 また、中学1年時に担任の数学教師の”ゴリポン”に授業中の悪ふざけを咎められ、二人して廊下に出され水を張ったバケツを持ったまま、授業が終わるまで廊下に立たされたこともあった。などなど彼にまつわる思い出は尽きない。
中学3年時に佐賀を離れた後も交流は続き、大学1年の夏休みには佐賀への無銭旅行でのベースキャンプ的に一週間ほど彼の家に居候を決め込み、若気の至りとはいえ、ご家族には大変ご迷惑をおかけした。その後も彼を触媒に佐賀の多くの友人たちの知己を得た。
ここ10年ほど、彼とは毎年春・秋に新宿・神田などで落合い、よもやま話に興じたものだ。昨年も5月に立川駅ビルで昼に軽食をともにしたが、一昨年の胃がん摘出の影響がもろに出ていて、80sの体重から激やせ、歩行もややおぼつかないように見受けられた。秋の再会を約して別れたが、9月に様子を窺うと、体調不良にて入院を繰り返して体重も46kgにさらに減量、骸骨みたいだと、電話の声も弱弱しかった。数日後に私にも胃がんが見つかり、自分のことで精一杯。 11月に入院して落ち着いたところで彼に電話すると、彼も入院中とのこと。じゃあ二人して退院して元気になったころ、春ごろに会おうと約して話したのが最後の会話となり、その後は連絡が取れなくなった。
11月29日、私の手術日、8時30分に手術室に搬入された。手術が終わり病室に戻って一段落したところで、携帯電話の受信経歴をチェックすると、私が手術室に搬入された直後の9時48分に彼からの来電の記録が残っていたがメモはなかった。 彼は何を話したかったのだろう。  合掌
友が逝く 思い出のダム 堰切れる
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